死刑の当日告知、事前告知 | 野中宗助の日常

野中宗助の日常

漱石「門」の主人公の名前を拝借

死刑の告知を、死刑の当日にするのは憲法違反かどうかの判決が昨日、大阪地裁であった。

 

判決は「違憲ではない」で、これに対して弁護団は「毎日、死刑執行の恐怖を感じている死刑囚の苦しみを考えていない判決だ。事前の告知があれば、何らかの準備ができるのに残酷だ」と遺憾の意を述べている。

 

正直、微妙な思いがする。

 

たしかに死刑執行の数日前に告知されれば「なんらかの準備ができる」かもしれない。

 

けれど「それも」残酷な気もする。

 

当日、突然言われた方が「いい」気もする。

 

「死刑執行の恐怖を感じている死刑囚の苦しみを考えていない判決」というくだりが理解できない。

 

事前告知も当日告知も恐怖を感じるということでは同じで、反論になっていない気がする。

 

どちらにせよ、死刑囚は毎日、恐怖におびえねばならない。

 

「何時だろう、何時だろう」と。

 

死刑そのものがどうなんだろうか?とも思う。

 

死刑廃止論者ではない、自分は。

 

ヒューマニズムで言うとそう考えるべきだろう。

 

でも殺された人の遺族の気持ちを考えると死刑やむなしとも思える。

 

死刑になるのはよほど残虐な殺人か、無差別な殺戮である。

 

復讐のために、あるいは事故で他人を殺しても死刑には至らない。

 

残虐な殺人、無差別な殺人を犯す人間は「殺す」ことを弄んだと言える。

 

京アニ事件などその典型で「やむなし」であろう。

 

それでも積極的に「やってしまえ」にはなれない。

 

それはヒューマニズムからではなく、死の恐怖からである。

 

死は自らの存在を否定する。


自らを否定することを考えることが矛盾している。

 

存在の否定は誰にも共通し、死刑囚の気持ちを自らに置き換えられる。

 

だから死刑がというより、人が死を「取り扱う」ことが難しく、やはり「躊躇わざる」を得ない。

 

今回の判決でも判決を述べる判事、反論する弁護士はどうなんだろうか?

 

言葉の羅列に、違和感を抱かないのか?

 

そんな風に法的にのみ解釈していいのか?である。

 

当日に告知すべきか事前に告知すべきかではなく、死の恐怖自体が問題で、なんか根本的な問題が欠けている。

 

裁判だから、法の問題だからと言えば終わりだが、その根本が欠けた「答え」は答えになっていない。

 

いや別にこの場合、答えは要らない。

 

人である限り、答えを出せないように思う。

 

答えを出した判事、答えに異論を唱える弁護士が、自分には「不思議」でならない。

 

死について考えたくない、それだけだ。