旅は「今だけ」「自分のため」のもの | 野中宗助の日常

野中宗助の日常

漱石「門」の主人公の名前を拝借

またガイドでの話。

 

おととい、ある寺でガイドをしていた。

 

国宝の仏像があり、「NO PHOTO」。

 

しかし外国人観光客は結構、無視する。

 

「NO PHOTO」と呼び掛けても、そのときは「OK OK」と言いながらこっそり隠れて撮る。

 

なんでそこまでして撮るのかがわからない。

 

まだしも自分自身や友達込みの写真ならわかるが、仏像だけでは意味がないだろう。

 

いまどきネットで探せばいくらでもその仏像の写真は出てくる。

 

そのお寺のパンフレットに載っている。

 

国宝の仏像は秘蔵ではない。

 

写真を撮らさないのは写真OKにすると人だかりができ、見る人と通行を妨げることが主な理由だ。

 

隠れて撮る写真はうまく撮れるはずがない。せ。

 

仮にSNSで送ってもざんない写真に違いない。

 

それでもSNS、あるいは土産話として自分が撮ったと、言いたいのだろうか。

 

SNS流行りで写真を撮る観光客は日本人、外国人に関わらず多い。

 

写真OKのところではみんな必死にパシャパシャしている。

 

でも旅行が終わって、改めて見るものだろうか?

 

「さ、この間の旅行の写真でもみようか」という気になるだろうか?

 

自分も写真を撮らないではない。

 

でも見返すことはまずない。

 

スマホの画像データに残されているだけだ。

 

SNSに載せるために撮るが、それはやはり見せる「意味」がないといけない。

 

SNSをみて相手が「なるほど」と思わないといけない。

 

SNSに載せる写真はメッセージであり、意味が必要だ。

 

「NO PHOTO」のところで撮ったというのは禁止を破ったという意味かもしれない。

 

しかしせっかく撮っても写真からそれは伝わらない。

 

自分はこっそり撮っている観光客にうるさくは言わない。

 

意味がないことをしている人にうるさく言うことがバカバカしい。

 

寺も「きつく言わないで」と指導している。

 

まさか撮ったものを「消すように」とは言えない。

 

写真を撮るより、やはりじっくり見たほうが値打ちがあると思う。

 

仏像の表情、所作には興味深いものがある。

 

そこに気が行かないことがもったいない。

 

ガイドをしていると観光客って、なにを求めているのかわからないことがある。

 

家族や友達と喋っているばかりで碌に観光してない人も多い。

 

ただ群れたり、SNSで他人に知らせたり、帰ってから振り返る「ため」の旅ってなんだろうか?と思う。

 

いま、自分自身を楽しませるのが旅だろう。