蒼龍の棲む洞穴
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カレーをめぐる冒険

 カレーとはなんぞや?男ならば誰しもカレーにこだわる。否、カレーにこだわるからこそ男なのである。一人暮らしの男は必ずカレーを作る。お玉を舐めて首を傾げながら、手当たり次第にスパイス・ハーブを投入し、勘のみを頼りに和洋中を溶かしこむ。食後反省を繰り返し、次こそはと雪辱を誓う、カレーという営みである。そんな男たちに兆す疑問、即ち。カレーとはなんぞや。

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カレーほど多様なレシピを持つ料理は他に類を見ない。例えばビーフシチュー。例えばストロガノフ。例えばボロネーゼ。それぞれ食材は限られていて、一部アレンジを除き、明確な定義がある。適切な調理方法があるのである。ライスカレー、インディアンカレー、スープカレー、ドライカレー、チキンカレー、ビーフカレー、キーマカレー、シーフードカレー、グリーンカレー、スリランカ、ネパール、ベトナム。カレーは宇宙である。

カレーを煮込みながらも男たちの不審は走り続ける。鍋の中の食材たちは一体どの瞬間にカレーとなるのか。ルーで作るならばルーを入れた瞬間に決まっている。しかし粉から作った場合、食材は鍋の中に存在していて、なおかつカレーではない。具材にスパイスと水を掛けたものをカレーと思う者は気が触れている。カレーの定義とはなんだ。煮込み時間か。スープカレーもドライカレーもカレーである。スパイスの濃度か。ホワイトカレーもカレーである。塩分濃度か。具材の柔らかさか。甘かろうが硬かろうがカレーはカレーだろう。カレーとは哲学である。


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「カレーはカレーだろう。」そう思う人にこそ問いたい。カレーとは何料理なのだと。この際国籍については問わない。ジャンルについてである。スープか。ソースか。煮物か。煮込み料理か。米料理か。野菜料理か。肉料理か。シチューにしろストロガノフにしろボロネーゼにしろ、その立ち位置は明快である。カレーだけが超然として、分類を拒んでいやしないか。私たちはそんな怪しげなものを、なんら疑義を差し挟むことなく日々嚥下しているのだ。カレーとは神秘である。

カレーというジレンマを抱えながら、男共は今日も具材を煮込む。カレーとはルールなき闘いである。そしてカレーの定義は人それぞれに異なっていて、個々人のうちに潜んでいる。カレーとは嗜好であり、価値観であると言える。バターを入れるか。ヨーグルトを入れるか。トマトを入れるか。ジャガイモは。ニンジンは。スパイスの選択と配合は。タマネギはどこまで炒めるか。添えるのは福神漬か、らっきょか、ピクルスか。マンゴーチャツネ、ガラムマサラは入れるのか。煮込み時間をどうするか。塩分調整は塩か、醤油か、ソースか。個々の疑問に1つずつ解を導く営みこそが、カレー作りである。

伝統のレシピあり、家庭の味があり、大胆な選択がある。その多様性こそがカレー作りであり、スパイスの香りには作り手の葛藤と歴史がある。女の作るカレーがつまらないのもその画一性、定義の狭さにある。人参玉葱じゃがいもとルーで構成されたカレーに安心感はあっても、どこか安易さを感じさせる。私は彼女たちの純真さを疑わないし、ごく常識的に愛してもいるが、ことカレーに関しては妥協の余地はない。カレーとは愛の問題である。

ブレイクしよう。一旦タバコでも吸おうじゃないか。コーヒーでも淹れようか?



オリーマーズ「Dance With Me Tonight」。この多幸感。PVに出てるオリーと役者の自然体の演技からは素朴な歓びが垂れ流されてる。ヒロイン、黒人、オリー自身の楽しくてしょうがないような、溢れるような笑顔を見ているだけで、不思議と自分が全肯定されてるような気分になる。外人ならでは、馬鹿馬鹿しく陽気な曲。


さて。そもそも私はカレーが好きじゃなかった。給食やキャンプのカレーは勿論美味しかったが、日常好んでカレーを食べようとは思わなかった。今思えばライスカレーの安易さとは幼い頃から相容れないところがあったのだろう。カレーに限らず、ハンバーグもオムライスもナポリタンも嫌いだった私は、特異な幼児だったのかもしれない。親はさぞかし困惑したことだろう。

カレーにごろごろ浮いているジャガイモや人参、玉葱の味が嫌いだった。ジャガイモの入ったカレーはでんぷん質が溶け出して粉っぽいし、具材としても人参玉葱と同様、味が染みていなくてカレーソースの味を減殺しているようにしか思えず、まるで必要性を感じなかった。牛にしろ豚にしろ、薄切りはただ美味しくなく、塊は固い。良い肉を使えば美味しく食べれたが、カレーでなければもっと美味しく食べられるのにな、としか思えなかった。有難がって食べている人の数だけ余計に私はカレーを憎んだ。

価値観が変わったのは浪人の時、勉強と精神的強迫で半ば狂っていた私は、地下街に迷い込み、古びた喫茶店でたまたまカレーを頼んだ。そのカレーは滅法うまかった。スプーンを持ったところまでは憶えているが、気がつくと皿は舐めたように綺麗になっていた。果実をふんだんに使ったカレーで、具はなく、まろやかで、それでいてスパイスも効いている。いわゆるライスカレーではなかった。本格的なインドカレーでもない。店のオヤジの作った、ただ旨いカレーだった。

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カレーに魅了された私は、それからも勉強から逃げるように喫茶店に通いつめ、貪るようにカレーを食べた。あの頃の私を支えたのは、友人であり、小説であり、音楽であり、映画であると共にカレーだった。大学に無事受かり、一人暮らしを始めてからもカレーで試行錯誤を重ねた。ここで一つの疑惑が浮上する。

“ルーで作ったカレーは、どんなに手を加えてもルーの味しかしない。”

昆布の出し汁で煮込んでも、日本酒を水がわりにしても(ひどい味だった)、飴色玉葱を使っても、桃やマンゴーをすりおろしてみても、ガラムマサラを振ってみても、煮込み時間を倍にしても、バーモントカレーを使えばバーモントカレーに、ディナーカレーを使えばディナーカレーにしかならなかった。割高なフレークを試しもしたが、多少マシという程度で、似た味にしかならない。

あの喫茶店の味にも、大学生になって初めて食べた中村屋の味にも、まるで似つかない別の食べ物が鍋に蟠っていた。私がルーを嫌うのは、その均一化された味だけでない。おかわりすると気持ちが悪くなるのだ。余り質の良い油を使ってないからなのだろう。ルーから油脂だけを取り除くことは不可能だから、ルー以外の方法論でカレーを作る必要があった。しかしカレーはルーから作るものではないか。当時の私はそう信じていた。ここで私のカレー作りは暗礁に乗り上げる。

カレー作りを半ば諦めていた私に光明が差すのは、それから数年が経ち、大学を卒業してからだった。漫然とザッピングしているとあるポータルサイトでカレーの記事を見つける。使用するのはカレー粉、ホールトマト、もも肉、ニンニク、生姜、ヨーグルト、マンゴーチャツネ、飴色玉葱とチーズ、赤ワイン、水と塩・砂糖。そう、タモリカレーである。ルーを使わず、具材は鶏肉だけというハードボイルドさ。タモリらしいシンプルかつ、手の込んだレシピである。なんと2時間も煮込まねばならないのだ。

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異形のタモリカレー

私に稲妻が走った。啓示の声だった。レシピに込められた意志の強さに打たれた。“俺はジャガイモ人参玉葱とルーで作られた、当たり前のカレーをカレーとして認めない”まさに私自身の意見と一致したタモリだった。一部レシピを省略したが、作ったカレーは美味しかった。2時間煮込んだ鶏肉はほろほろと崩れて、甘酢いカレーソースと一体化していた。心底美味しかった。

それから今に至るまで、私は月に一度は必ずカレーを作る。粉から作るカレーは具材、香辛料、ハーブ、煮込み時間、調理の段取りなどに一々反応して、味を変える。まるで中世の錬金術師のように、私はその変化に魅了され、同時に楽しんでいる。一口目の一喜一憂も含めて、カレーはその営み全てを溶かしあわせ、スパイスの香りで包み込み、私を癒す。カレーとはなんぞや。私にとってカレーとはなんぞや。

私はルーの欺瞞を、ジャガイモ人参玉葱の常識を許さない。煮込み時間が1時間に満たないものをカレーとは認めないし、香辛料やカレー粉を持たずにカレーを語る者を憐れに思う。カレーにバター、ヨーグルトとニンニクは必須として、小分けに冷凍保存した飴色玉葱、気まぐれに買ったスパイス、最低級の鶏肉や気まぐれな具材を炒め、煮込む。

塩分の代わりに塩昆布を使っても面白い。大根は味が沁みて美味しい。今日はレモンをすりおろしてみよう。骨付きモモ肉を使ってみるのはどうか。バジル?入れてしまえ。隠し味にキムチはどうか。七味唐辛子も面白そうだ。ジャスミンライスも試してみたい。ツナ?論外だ。蜂蜜は風味が良い。

喫茶店の味にも中村屋の味にも、その他多くの専門店の味には遠く及ばない。しかし今、この皿に盛られたカレーライスはまさしく私の味なのだ。過去を踏み越え未来へと渡された今を生きる私自身である。カレーとはなんぞや。私の生き方そのものである。カレーとはなんぞや。心である。私はカレーとして生き、カレーのように死ぬ。死んだらカレーに煮とかして列席者に振舞って欲しいと思う。そうありたい。

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くだらないことをだらだらと書いてきた。べつに誰に食わせる訳ではないが、カレーの歓びを誰かに言い聞かせたかった。別にそれだけのこと。そして迂闊に私にカレーの話題を振らないように、実生活を構成する諸要素にも注意を促したかった。カレーで一本、世の化学者、数学者、文化人類学者は論文を書いても面白いんじゃなかろうか。無駄に疲れたのでもうおわり。さよなら。

ちなみにタモリカレーの革命的なところは、カレーを肉料理として明快に定義したことにあると思う。いかに鶏肉を美味しく食べるか、という一点のみで練られたレシピで、カレーソースはあくまで従にすぎない。カレーライスと聞けば液状のドロドロを食べることしか考えてなかった私の脳天を、そうした意味でも痛撃した





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謝辞に代えて

 皆さんお元気ですか。いつの間にか三月、春はもうすぐそこです。春冷えと言いますか、寒い日はまだまだ続きそうな気配です。天気予報見てないからよく分かりませんが。就職活動は佳境を迎えていますし、転職して心機一転を図る者もいるかと思えば、ぼちぼち結婚の報せもいくつかあり、気候より先に春めいた気配がしている今日この頃であります。



先月発売された鶴“夜を越えて”。これは良いアフロ。こういう一本筋の通ったPOPは憎めません。山崎まさよしっぽいというか、コレクターズぽいというか。まぁ流行っているかは別として、ピングドラムにしてもモーレツ宇宙海賊にしても、どうも最近の一つの潮流としてアナクロニズム、言い換えれば懐かしさ、意訳すれば昭和っぽさ、みたいなものがどうもあるっぽい。

なんだろう、一種のダサさを平然と打ち出す感じ、苦役列車もそうだったけれど、主流派になるかなんて知らないし多分そんなことあり得ないからどうでも良いとして、まぁ取り敢えず、僕的にはとてもよいです。ある意味ポップカルチャーが悪い夢から醒めつつあるような印象を受けます。(まぁAKBも懐古っちゃ懐古ですけどね…)

ぼちぼち震災の日から一年が経とうとしている今、下なんか向いていたってしょうがないんだゾと、鶴に喝を入れられた新鮮な思いを春に託しながら、このブログの近況報告に代えさせていただこうかなと。おぉ寒い、寒い。それではまた。


えっ田中慎弥?まぁ気が向いたらネ…。



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未遂に終わったブログ談義、ではなく近況報告

 僕は先ず、「二十五歳未満の者、小説を書くべからず」という規則を拵えたい。全く、十七、十八乃至二十歳で、小説を書いたって、しようがないと思う。とにかく、小説を書くには、文章だとか、技巧だとか、そんなものよりも、ある程度に、生活を知るということと、ある程度に、人生に対する考え、いわゆる人生観というべきものを、きちんと持つということが必要である。とにかく、どんなものでも、自分自身、独特の哲学といったものを持つことが必要だと思う。それが出来るまでは、小説を書いたって、ただの遊戯に過ぎないと思う。だから、二十歳前後の青年が、小説を持って来て、「見てくれ」というものがあっても、実際、挨拶のしようがないのだ。で、とにかく、人生というものに対しての自分自身の考えを持つようになれば、それが小説を書く準備としては第一であって、それより以上、注意することはない。小説を実際に書くなどということは、ずっと末の末だと思う。

僕は自分というものほど分からないものはないと思う。小説を書こうと思っていた。いや、正確には思っている。私小説的な題材もあり、想像で作った粗いプロットのようなものもない訳じゃない。いくつかあったりする。それでも、なんとなく、書く気が起きない。たぶんまぁ読めるものにはなると思う。でも書かない。そこには自分でも論理的に把握していないだけの、明確な理由が黒々と横たわっていて、後から考えれば言葉になるのかも知らんが、いまのところ取り敢えず保留という判を押して箱に閉じ込めている。

例えばそれは文章との向き合い方とでも言える。手紙でもレポートでも論文でも良い、なにかまとまった量の文章を書くとき、手紙であれば書き出し、論文であれば書く前の準備の多寡で内容が左右される。それは書き手の文章への向き合い方、意志である。小説であれ、評論であれ、ブログエントリであれ、書く人の確固たる気持ちがなければただの記号の羅列でしかなく、文章の可否を決める条件の中で強烈に重要な要因ではないかと思う。

書き手の意志、すなわち〝これを伝えたい〟という強い思いがあれば、自然と方法論へと段階は進み、その後書く作業へとスムーズに移ることになる。いまこの時代に自分が触れる文章のほぼ全てに共通して感じる一種の鼻持ちならなさは、書き手の意志の希薄さに由来していて、技術や形式ばかりに頼っている、むしろ誇っているような印象すら受けるからなのだと思っている。自分の〝書き出さない〟という感覚的な危惧は、そうした自分の嫌いな文章へと自分の文章がいずれなってゆくのではないか、というおそれから来ているように思えてならない。

そうした自分と文章の向き合い方が定まっていない、というのは菊池寛に言わせれば、人生に対する考えが定まっていないということと同義であるらしい。引用したのは『小説家たらんとする青年に与う』の冒頭なのだけれど、その是非はともかく、まぁ感覚的に腑に落ちるというか、身につまされること甚だしい。書けば良いってもんでもないのだよ。たぶん言い訳ではないと思う。

書くこと以前に人生に向き合え、という言葉に重みを感じるのは結局、自分が進んで人生を切り開いてこなかった反省があるからだ。これまでの人生の節々にあった選択、受験であり就職活動であり恋愛であり趣味嗜好その他一切合財を含めて、自分が強い意志で決断したことなんて正直一回たりともなかった。限られた優等生的な選択肢の中から比較的妥当なものを選んだだけで、学校を中退したり、専門学校を目指したり、日本を徒歩で一周してみたり、留学したり、そういった可能性は脳裡をかすめることはあっても行動に移すことはないまま今に至っている。

人間としての弱さ、流されるがままになってる自分の滑稽さにいい加減愛想が尽きつつあることもあり、そろそろ一つの区切りとして保留しつづけた諸問題を解決し、自分という人間の未来を仮定すべき段階に差し掛かっている。いわば過去の清算、その上での未来の策定である。よい結果を生むとは限らないのだけれど、自分なりに行動に移すべきか。ふとそんなことを考えていた。文章で読むとさらりとしていて、なんでもないようなことだけれど、実生活では大きな変化をもたらすある種の破壊的な思考ですがね。まぁ良い。さぁさぁ気分転換。


mihimaruGTという語感すらもはや懐かしいのだけれど、昔ipodminiを亀から譲ってもらったとき、中に入っていてそのまま暫く聴いていた。最近ふとしたきっかけで聴き直したんだが、鋭角の二等辺三角形みたいな曲の構成のせいなのか、サウンドの心地よさなのか、冗長さなんて欠片もなくて、特徴的なメロディーのイン・ザ・ムードを組み込みながら違和感なくほんのり叙情的で、どこか陽気でもあるという捉えどころのなさ、ダンスミュージックでありながらポップ、その曖昧さ、混沌さ加減が見事に日本だと思う。リリースから5年半も経っていながら、不思議と古さを感じさせないし、今聴くと余計に新鮮ですらあってすごく良い。これはもう個性だよなぁ


そんなこんなで、まぁブログ書いたり書かなかったりですが、重く考えなくても書けるし、重く書こうと思えば書ける便利な媒体なので、今の僕にとっては曖昧な結論でありながら積極的な回答の一端でもある、要はとても必要なんだと思う。自尻に鞭打ちながらマイペースにやってゆきます。これからも。そんなこんなでここんとこ観た映画の紹介なんかして近況報告を終わろうかなと。

あ、早ければ明日辺り第146回芥川賞について書きます。受賞作両方と選評を読んだので。そこまでは長くならないかと予定してます。それでは。


アメリカン・ビューティー

家族というあやふやな絆を分解してゆく映画。妻にも娘にも馬鹿にされるだらしのない父親が新しい家族を模索しながら、新しい自分を獲得してゆく。揺らぐ家族関係を通して、アメリカの家族の絆の強さ、その誇らしさを見せつけてきて、この切り取り方はとても好き
☆☆☆☆

ローズ家の戦争

最初1時間くらいはただただ退屈だけれど、最後30分くらい、夫婦喧嘩が始まってからの面白さ。ブラックユーモア大好きな人必見。映画としての安定感もさすが
☆☆☆★

リトル・ミス・サンシャイン

設定自体は重苦しいんだけれど、軽くてユーモアたっぷりにサクサク進むからとても観やすい。ごく個人的な感想として、子供のミスコンを馬鹿にしまくってる描写がとても良い。例の場面では笑いながら泣くという得難い経験をすることになった。まぁ観りゃ分かる
☆☆☆☆

タイタンズを忘れない

米高校での人種差別をアメフトで解決してゆく。ディズニー映画としてはよくできているとは思うが、実話ってことに寄りかかり過ぎていて突っ込み不足、物足りない感。インビクタス観た人は観る必要全くナシ
☆★

ユージュアル・サスペクツ

なんか色々面倒臭い。左脳で観る映画は苦手です。真犯人をさがすのが好きな人には良い。すごく凝った作りになってるぽい
☆☆



有象無象の魑魅魍魎と、円環的なもの

 家ってのは良いもんだ。この数日旅のようなものに出ていて、日頃会わぬ友人なんぞと会ったり喋ったりしていたものだが、宿の準備をする綿密さなぞ私が持ちようはずもなく、従って行き当たりばったり漫画喫茶やビデオボックス、アテがあれば友人宅に泊めてもらうような有様だったので、ただでさえ風邪気味だった上に運賃をケチって夜行バスになぞ乗ったりしたものだから、体調は崩し挙句に精神的にも滅入ってしまい、旅の浮かれ気分なぞ微塵もなく蹌踉と帰路につく馬鹿馬鹿しさだったのだ。

風のむくまま気の向くまま、着の身着のまま家を発った私は当然のごとく着替えを持たないから、日に日に汚れてゆく靴下とトランクスをうらめしげに眺め、総身から鼻の曲がるような腐臭を発し、蒼白に無精髭の薄汚れた顔を俯きがちに歩く。明日の予定どころか宿もなく、自分の今のあやふやな状態も身につまされるようで、自分用に掘られた墓穴でもあれば喜んで飛び込みたいくらいに暗澹たる心の荒れ方だった。

だから家に帰り、自分好みに配置した家具に囲まれ、自分に馴染んだ蒲団があり、自分の好きな本があり、着替えや身支度に必要な消耗品すべてが設えられた自分の部屋に帰ってくると、それだけで失禁しそうなほどに弛緩して、無性に安心して泣きたいような気分になる。日ごろ仏頂面で退屈を囲っていた自分は、なんと境遇に甘え、油断して日を過ごしていたのだろうと思う。今すぐにでも感謝をしないといけないと思う。何に?じゃあ神にでも。


勿論私の心身の状態がベストでなかったとは言え、あの旅らしきもの、その価値が損なわれるものでは決してない。いやむしろ、だからこそ、あの数日間は充実した期間でもあった。改めて確認したものの一つは、人生そのものの価値とでも言おうか、まぁ勿体つけずに書けば友人というものについてである。ふとした瞬間、私の脳裡をよぎる言葉にいくつかあるが、特に強く響くものに“人生にとって一番大切なものは何か?”という問いかけがある。

普段であれば漠然としたままで疑問は形を解き雲散霧消していくのだが、この数日間になんとなく閃いたのは、まぁ友人なのかもしれないな、というありきたりな答えらしきものだった。友人が宿を貸してくれたからとか、何か寄る辺なき私を精神的に支えてくれただとか、そんな単純な公式から割り出されたものでは無論なく、それとなく持ち重りのする、なんだか感覚的なナニモノかが私にそう囁いたのだ。そこに理窟なぞない。

例えばここに私という客体が存在する。その客体は様々な要素から構成されていて、それは生物学的な、物理学的な、時間的な、形而上学的なものであるとともに、本や教育・音楽といった情報の集合体でもある。では分析で数値化し、情報が積み重なれば私という客体が出来上がるのかというと(身長がいくつ、年齢がいくつ、出身がどこで、高校でどの程度の成績を残し、どんな嗜好をしていて、いままでどんな小説や映画に親しんできたか等)、どこか割り切れない気持ちが残る。

ひどく抽象的で、ある意味人間的で、漠然としていながら無限のような広がりをもったナニモノか、それは私という客体にいつの間にか根を下ろし、人生における重要な決断の際にひょっこり姿を現したかと思うと忽然と姿をくらます、そんな得体のしれない塊が篩を掛けた後のざるの上に珍妙な様子で残っている。日頃顧みられることのない、曖昧模糊としたものである。

この物体が客体にとって重大な作用を持つことは自明で、順風満帆誰もが羨む地位も名誉手に入れた男が惑うことがあるのも、利口な人間が時にどう考えても不利な選択肢を選んでしまうのも、貧乏人で社会の最底辺に生ける者の瞳に輝きが宿るのも、内面に潜む此奴の仕業であり、それを私は経験で知っている。言うなれば魂とでも言うべきもの、また判断基準や価値観の源泉であり、動物を人間足らしめている一つの定義である。

この魂らしきものは、人と出会うことでのみ育まれ、共感することで同化し、一回り膨らむ。素朴な感動であり、霊感めいた驚きである。我が物顔で所有している自分らしさ、その大部分、いや全てが他から脱胎された他者の一部である。暇な人は分析してみれば良いが、突き詰めると自分という客体に他者に依存しない固有の性質なぞない。嗜好であれ価値観であれ、形づくるのは環境であり他者から剽窃したものだ。

外形なんぞより遥かに持ち重りのするのがこの内面のナニモノかであるのなら、その同種の魂でしか作用し合えぬ性質故に、私たちの客体にとってなにより大切なもの、それは広義の友人である。影響しあえる多少なりとも異なった色をした人々、先輩であり上司であり部下であり後輩であり同年輩の誰かかも知れぬ他者の存在こそが、私という客体を定義している。

常に変わりゆくあやふやな“個”という概念を繋ぎとめるのが他者であるのなら、旧い友人は過去の鏡であり、今の友人は今の自分、未来は新しい友人が切り開き、戸惑い彷徨う自己を探し歩く際にもそれらは道標として機能するだろう。この一種当たり前で、常識めいた顔で闊歩していることの説明をダラダラ書いてきたのは、それが抽象的な観念としてでなく、私の中で真理らしく息づいてきたからに他ならない。

それは旧い友人と、久し振りに会った時、理窟でなく、なにやら清涼な気分を感じたことによる。まるで自分が生まれ変わったかのような、新鮮な気持ちだった。過去が立ちのぼり、私を包んで肯定し、そのまま刻一刻と歩く未来に向けて後押しをしてくれるかのような安心感を覚えたのだ。その瞬間、自分は他者によって生かされていて、また他者のために生きているんだという、自己犠牲とエゴイズムを共に孕んだ双頭の蛇がニヤリと笑い、私を無限で平和な円環に繋いだ。

新年明けてから縁のある友人と会う機会が唐突に増え、喜びだけでなく自分の至らなさ、なにか空虚さ無力感を噛み締めて浮かない日々を過ごしていたが、旅先での寂しさもあってか、なんだか知らんがこれでいいやと思えるナニモノかが降ってきた。自分は他者の集合体で、他者も自分を含めた集合体の一部で、個別のプライドやらなんやらもあるだろうけれど、本質的なところで何も劣っていないし、優れてもいない。その上で、自分ならぬ他者のために何ができるのか、どう奉仕するのかが重要で、それはこれからじっくり考えれば良いだけのハナシ。

なんだかもう思考が交錯して、火花が止まらなくてうるさいからこの辺にしておく。自分が他者であることの喜び、他者が自分であることの喜びなくして、もはや一歩たりとも動くことはできない。だから生きなきゃならんのだろうし、誰かの死が生理的に忌まれる理由もきっと、そのへんにあるんだろう。おわり。







不能者に捧げる「初恋サイダー」

 用事があって外出してきたんだが、世間的には売れないアイドルグループだと認識されてはいるものの、それだけ知名度がある、ある意味では成功してるアイドルユニットのイベントだかが行われるらしく、設営された舞台の周りにかなりの人だかりがあった。その中に近所で一番汚いコンビニの、一週間くらい髪を洗ってないデブで無精髭で、更にレジを挟んでもひどく臭い店員の姿を発見してしまって、醜い食物連鎖をみせつけられたようで、思わず顔を背けてしまった。

しかしまぁ考えてみれば、正社員はおろか公務員にもなれないだろうし、かといって専門的知識・技能もなく、資格試験に挑む気概もよほどのきっかけがない限りありそうもない、ましてこのデフレ不況極まる暗く重苦しい時代の中で、夢も希望もある訳がない30代くらいのコンビニ店員が、ネットだかで見つけた友達と嬉しげに話している図というのはそんなに悪いもんじゃない。

社会から孤絶された彼らにとって、何かしらの交友関係と外出先での様々な刺激を与える“アイドル”という存在はある意味、いや文字通り「命綱」となっていることに気付いた。応急措置であるかもしれない、その場しのぎかも知れない、現実逃避であるかもしれないが、しかし彼らに紛れも無く喜びを、希望を夢を与えている。思想でも哲学でも政治でもない、ただの商業アイドルが、だ。それだけ膨大なエネルギーを内包しているアイドルたちのことを、この不況下で彼女たちですら笑ってられないこのタイミングで、もう一度考えたいと思うのだ。

ちなみに余談だが、僕が彼なら公務員か資格の勉強をする。公務員は35くらいでも採用の可能性があるし、資格試験に関しても年齢制限は緩い。バイトのシフトを極力減らし、風呂なし便所共同で郊外の家賃2万以下の物件で、テレビもパソコンも捨ててひたすら勉強する。試験自体はそんなに難しくないから、ある程度真面目に勉強すれば一年以内に職を持てるだろう。その先の人生はそれから考えればいい。世の中そこまで捨てたもんじゃないのだ。

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 AKB48に席巻されてしまった2011年は怒濤のように過ぎ去り、2012年も彼女たちと秋元康の快進撃は止みそうもない。紅白や最近のPVを観た印象では、おっAKBも結構頑張ってるじゃん、というのが素直な感想だ。知らない子供たちの学芸会でのダンスかなんかを見せられてるような不快感も、まぁ随分和らぎ、ほどほど良い曲に悪くない歌詞、歌やらダンスやらも最新の技術で加工されたとはいえ、彼女たちなりに向上させている。正直悪くないと思う。特に曲に漂うそこはかとない懐古の調べは良いと思う。

でもね。やっぱり僕はAKB48の楽曲や映像を観ると少し違うんだよなぁって感想を持つし、個人的で申し訳ないのだけれど、少し哀しくなる。前エントリでも書いたみたいに(読んでくれた人、本当にありがとう!)、これが“歌”として認識されてること、また彼女たちをアーティストや歌手として扱う世潮に拒否感が依然あるから、そうした根本的な、前提に含まれている齟齬や違和感に自分くらいは真摯に向き合わないといけないと思う。

まぁAKBの悪口は一旦置いておくとして、AKBが芸能界、特にアイドル業界に与えた影響というのは現在進行形ではあるけれど、とても大きいように思う。モーニング娘がアーティスト(歌・ダンス)路線へと舵を切ったのもAKBの影響が少しはあるだろうし、それ以外のいわゆる売れないけど知名度のあるアイドル群、例えばアイドリング・スマイレージ・ももクロなんかに代表されるユニットも、他グループとの差別化を図って独自色を鮮明に出している。

アイドル戦国時代とか言われてるらしいが、AKB旋風の経緯と風潮は芸能界に大きな風穴を開け、美少女が歌って踊っていれば人気がでていた従来路線からの脱却・転換点を迎えている。ある意味での活気が出てきているし、プロデューサーやアイドルたちは必死の形相で頑張っていて、不謹慎かもしれないが個人的には面白い。それぞれ生き残りを賭けた新曲PVを観る喜びというのも、安定していた頃よりも遥かに大きい。この1・2月はモーニング娘もAKBも新譜を出すし、多分他も色々出す。その中でもちょっと紹介させて欲しいんだ。

Buono! 初恋サイダー


Buonoはハロプロ所属のBerryz工房と℃-uteの選抜メンバーで結成された三人グループらしい。まぁどっちも大して知らないしどうでもいいんだけど、このグループ、まず曲が良い。歌が上手い。ダンスもモーニング娘の(ちょっと前の)ストイックな方向とは違うけれど上手い。アイドルとしても、三人のキャラクターがとても立っていて訴求力が、いや魅力と言って良いのかな、強い。

アイドルとか関係なく、僕はそもそも少し恥ずかしいくらい直球の曲いや歌が好きで、だから90年代前後のポップスとかよく聴いているんだけれど、この曲にはちょっと昔の、歌に情熱とか恋とか恥ずかしげもなく込めていた時代の匂いがして、僕はすんなり受け入れることができる。ロックとアイドルというミスマッチも気持ちよく混在していて違和感ない。とても良いじゃん。

彼女たちの提示するアイドル像というのも、曲同様少し古さがあるんだけれど、なんかいわゆるkawaii感というのを体現していて分かりやすく、かつ妥協がないところに好感を持つ。Buonoは結成が2007年なので、既にシングルも沢山出しているし、ツアーを含めてライブ回数もかなりこなしている。未確認なんだけれど、そういった歌・ダンス・キャラクターで形作られるkawaii感がウケたらしく、海外での評判が日本以上に良いらしい。台湾メディアに「日本の恥」と報道されたAKBとは一線を画しているじゃないか。

そうした意味で、技術的にも内包するイメージにおいても、AKB48とは対極に近いポジションにいるグループじゃないかと思う。AKBの中品質大量生産、既製品のような価値観ではなく、職人が一つずつ手作りしているような安心感がそこにはある。幼時からのボイストレーニング、ダンスレッスン、また規律・心得的なもの“教育”、選抜も含めて、手間暇かけて結晶化されたアイドル像というのを、ハロプロが提示したのがBuonoなんだろう。もちろんモーニング娘とは別に。

アンチAKB、それは意識的無意識的を問わず、アイドル産業に携わる人達の願い、“そうじゃないだろ、アイドルって!”という強い思いを表しているんじゃないか。彼らが手塩をかけて育て上げたアイドルたちは、特にハロプロの場合は、溌剌としていて陽気でありながら“清涼感”がある。個人的な印象だと前置きさせて頂いたうえで、強かなイメージのあるAKBとはやはり違うのだと思う。仮にそれが本来の女性像に近いのだとしても。

消費者の立場でも、どこかで純真さを捨て切れない男たちの、文字通り偶像化した女性像こそが彼女たち『アイドル』なのだ。男目線で歪んでいることは間違いないにしても、そうした一部の男どもの切なる願い、心に開いた空洞を埋めるのにAKBでは役不足なのだ。バラエティー番組でも丁寧な言葉遣いをして欲しいし、キャラクターを崩さず、空気を読んで頭のいい発言をして欲しい。歌もダンスも上手ければそれだけ良い。人間として一対一で尊敬できるナニモノかも欲しいところだ。

アイドルは歪んだエゴイズムの受け皿みたいなもんだと思う。以前少し書いたけれど、なぜ“鑑賞に耐える美少女”に商品価値が生まれるかというと、彼女たちが多くの代償を払っているからだ。たかだか他人を喜ばせるためだけに献身し、時間もエネルギーも自由も欲求も犠牲にする。だからこそ一種の神秘性があり、宗教にも似た訴求力を持っているんだと思ってる。可視的なものばかりに囚われる現代でも、そんな馬鹿馬鹿しい観念が生きていて、それだけ面白みとなって人々の生活を豊かにしているのだ。ここらで一息。

Buono! ガチンコでいこう!


ちなみにBuonoのリーダーは真ん中で歌ってる背の低い嗣永桃子なんですが、彼女はネットでは色々と有名らしく、様々な情報が出てきます。どうも実話らしいのですが、なんか握手会で革命を起こしたとか。握手会前にこう言ったらしい。

今日は、私から提案があるんです。ほら握手会ていつも(流れが)早くて、会話できないじゃないですか?(握手会での流される様子を身振り交えて)ファン<ももぉ、○×△… 私<え、はい? ありがとうございます!みたいな。今日は、皆さんとお話がしたいんです。「今日何食べたの?」でもいいので…。だから、いま先に(言っておきます)ありがとうございます!

そうしていつもよりも時間を掛けて握手会をしたんだとか。アイドルの握手会には引き剥がしといって、握手直後にファンをアイドルから引き離す係がいるそうなんですが、仮に打算だとしても、ファンとの距離感を少しでも埋めようとする彼女の発言は、それだけファンの心に染みただろうし、そのホスピタリティーの精神は時間のないアイドルだけに眩しく映る。すごく効率の悪いやり方なのだけど、そうした一瞬一瞬に輝く尊厳こそ、他に代えようもなくファンの心を癒すのだろうと思う。

某バラエティーに出てたのも観たが、道重さゆみばりに、いやもっと強烈に前にグイグイに出てって加藤浩次に曳きずり回されたり飛び蹴りくらってるのを見て、なんだか無性に感動した。顔形が整っていて歌がうまい・ダンスが上手いだけでは評価されない、だからこそ、アイドルたちはバラエティー番組に進んで露出し、お笑い芸人相手に体を張り、少しでも知名度を上げるために身を削っている。AKB後のアイドルにとっていかにも厳しい時代だが、そんな逆境こそ、商業アイドルとしての真価が発揮される。

また、姿勢。嗣永はぎょっとするくらいに姿勢が良い。踊ってる間も背中は弓なりに反っている。ダンスの時の指先の角度。ジャンプの時の足の上げ方、手の上げ方、また歩き方。表情の作り方。そうした一つ一つの積み重ねが彼女を文句なしにアイドルに見せていて、それらは一朝一夕どころで成るものでなく、またできない人には一生出来ないことだろう。

第144回芥川賞で朝吹真理子への川上弘美の選評をふと思い出すんだが、2・3違和感のあった表現を取り出した後で、これらの表現はどれも文法的に間違っているわけではないが、作品全体の雰囲気に調和していない、みたいなことを書き最後に、小説家という職業はそうした細かい表現にこだわり抜き積み重ねることにある、というようなことを書いていたのを憶えている。アイドルにも同じ事があてはまると思う。

行住坐臥、自分の立ち居振る舞いをチェックし、他人にどう見せるかを意識し、時には習慣であっても矯正することで、よりアイドルらしくあろうとする営みこそが彼女たちをアイドル足らしめているんじゃないか。嗣永の場合はそれが素人目にも顕著に表れている好例で、彼女の場合は切った爪までアイドルの形をしてるんじゃないかと思うほど、挙措動作が常軌を逸してアイドルっぽい。

そういう日々の努力には10代とは思えないプロ意識を感じて好感を持たざるを得ないし、その意味では、アマチュア感を売りにしているAKBがどうしても太刀打ちできない美点であるとも言える。でだ。そろそろ疲れてきたので結論に移ろう。

1月18日リリース「初恋サイダー」


ふと気付いたんだ。アイドルとは双方向の概念なんじゃないか。非現実的な女性像に救いを求める一部の業深い男たちと、特別な存在であり続けたい少女たち、双方の祈りを実現したものなんじゃないかと。どちらが欠けても存在できない、またどちらに過重な負担がある訳でもない、本質的には対等な関係なんじゃないか。果てしなく遠回りではあるけれど、それは間接的ではなく直接的な、擬似的とはいえ一つの恋愛関係だと定義しても、ギリギリで間違いではないんじゃないか。そう思ったんだ。

意気地なしで恥ずかしがりやな
あなたを想う 待ってられないの

Kissをあげるよ
今さら好きなんて言葉より効き目あるでしょ
あなたにだけはそっと教えてあげる
胸の奥 小さい蕾の温もり

鈍感なあなたの事
振り向かせたいから勝負かけるの

Kissをあげるよ
愛してますなんて言葉より魅力的でしょ
聞こえちゃうくらい早くなるドキドキ
初恋はサイダーみたいに弾ける

友達同士 そんな境界線
今すぐに飛び越えたいの


この逆境のなか彼女たちは心の中で下唇を噛みながら、おくびにも出さず、今日も輝くように笑っている。ファンのためだ。そんな彼女たちが歌詞を通じて、ファンに向けて恥ずかしげもなく告白した思いに、少しでも距離を縮めようとする気持ちに、アイドルという在り方そのものに投じた一石に、あなたは心を動かされなかったか。

もちろん無理のある解釈であることは百も承知だ。でも敢えて言おう。この思いに応えられない男は不能者も同然だ。彼女たちの姿に奉仕を、自己犠牲の美徳を感じなかったか。AKBに違和感を持つ人にとって価値のある楽曲だと思う。昨日発売の新譜だ。もし共感して頂けたのなら、是非彼女たちのために代価を支払ってあげて欲しいと思う。来週のオリコンチャートで秋元康に一矢報いようじゃないか。懸命な彼女たちのために報いてあげて欲しいと、一人の人間として僕は願っている。



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勿論好みはあるので、僕の正気を一瞬でも疑った人はまぁご笑納ください。まじですかスカと同様に友人に面と向かって紹介するのは少し躊躇われるので、というのも僕のキャラクターとどうもギャップがあるらしくて驚かれるので、ブログでならこれくらいの温度で書いて良いかなと。あーあ、遅くとも18日中にアップする筈だったのに、結局日をまたいでしまった。まぁ良いか。ここんとこ色々思う所があって、自分の気持ちを反省やら自戒も込めて真摯に書いたエントリがあったんですが、あまりにもダウン系なのでアップするのは控えました。政治についてもアレコレ考えてたり、どーしても書きたい大型エントリの始末に困ったりと、なかなかに悩ましい日々を過ごしています。元気は元気です。それでは







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