■■アーカイヴ・シリーズ022 マルディ・グラからつながる自由が丘の思い出~1979年夏から19 | 吉岡正晴のソウル・サーチン

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■■アーカイヴ・シリーズ022 マルディ・グラからつながる自由が丘の思い出~1979年夏から1983年夏までの一ページ■■

 

1970年代から80年代初期にかけて自由が丘に「レノン・ストリート」というカフェ・バーのような店があった。マスターがジョン・レノン好きだったので、「レノン・ストリート」と名付けた。そこは今、「マルディ・グラ」という音楽バーになっている。その周辺の思い出話。

 

 

(本作・本文は約7000字。「黙読」ゆっくり1分500字、「速読」1分1000字換算すると、14分から7分。いわゆる「音読」(アナウンサー1分300字)だと23分くらいの至福のひと時です。ただしリンク記事を読んだり、音源などを聴きますと、もう少しさらに長いお時間楽しめます。お楽しみください)

 

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自由が丘

2007年08月22日(水)

https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10044347314.html

 

【マルディ・グラからつながる自由が丘の思い出】

 

自由が丘。

 

自由が丘の駅から東横線沿いに日吉方面に右側の道を歩いていくと四つ角がある。左に曲がると上が東横線が走るガード。右角に雑貨屋があり、その地下に「マルディ・グラ」がある。

 

『ガンボズ・イアーVol.12~ソウル・サーチン・ビデオ・ナイト』でお世話になった「マルディ・グラ」は、名前から想像できるように、ニューオーリンズ気分にしてくれる音楽のある店だ。壁には何枚もの1970年代のロックやソウルのレコードのジャケットが額に入れて飾られている。ここで守島さんのイヴェント『ガンボズ・イアー』の第1回が行われたのが2000年10月。ちょうど同年7月に拙著『ソウル・サーチン』が発売され、「発売記念イヴェントは別にないです」と言ったら、守島さんが「じゃあ、なにかやりましょう」ということで企画してくださった。

 

それから7年を経て、再び、ここで「ガンボズ・イアー第12回」に参加したのだが、実は、この会場「マルディ・グラ」のある場所については以前から気になっていた。

 

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レノン・ストリート。

 

その昔、1970年代後半から自由が丘で僕がよく行く店があった。それは「レノン・ストリート」という当時比較的おしゃれな店だった。それこそ田中康夫氏の小説『なんとなく、クリスタル』(1980年)に出てきそうな(ひょっとしたら出てきていたかもしれない)店だ。まだ「カフェ・バー」という言葉が生まれる前に、新しめの洋楽のレコードをかけていた「カフェ・バー」風の店だった。たぶん1978年か1979年あたりのことだったのだろう。

 

で、7年前(2000年)に「マルディ・グラ」に来たときに、この辺に「レノン・ストリート」があったような気がおぼろげにしていた。そのときは、すっかりそれを確かめるのを忘れたのだが、日曜日(8月19日)に久しぶりに行った「マルディ・グラ」のオウナー川村さんに尋ねた。

 

すると、やはり、この地はまさにかつて「レノン・ストリート」があった場所だったのだ。「レノン・ストリート」の入口は東横線沿いだったが、「マルディ・グラ」の入口がそれと直角に交わる道にあるので、ちょっとわからなかったのだ。川村さんによれば、この場所は「レノン・ストリート」のマスター(僕や仲間たちは当時彼のことを「レノン・ストリートのマスター」ということで略して「レノマス」と呼んでいた)の両親が持っていたもので、建物を一部改装し、2階に住居、1階部分を「レノン・ストリート」という店にしていたのだという。もちろん、「レノマス」は、ジョン・レノンが大好きだったから、この店名にした。

 

「レノン・ストリート」も店内はブラックを基調にしたいい店で、レコードジャケットを壁に飾っていた。ビートルズや西海岸のイーグルスや、マイケル・フランクスやら、ちょっとしたソウル系、フュージョン系のレコードをそれほど大音量ではなくかけていた。

 

そして1980年代後期か1990年代初期に、「レノマス」はアメリカ人女性と結婚し、アメリカに移住することになり、この土地を売却、新たに買い求めた人が3階建てのビルを建て、その地下1階に「マルディ・グラ」がはいったらしい。

 

「マルディ・グラ」は最初のオウナー、ミックさんが1992年にオープン。しかし、1997年10月彼は事情で九州・熊本県人吉市に引っ越し、そのときにミックさんから現在のオウナー川村さんが店を引き継いだ。ミックさんは熊本でも、やはり「マルディ・グラ」のようなレコードをたくさん置いている音楽バー「ベアーズ・カフェ」という店を経営されている。ミックさんは、「マルディ・グラ」の前には青山で「サル・パラダイス」という店もやっていたというから根っからのミュージック・マンのようだ。「マルディ・グラ」はオープンして15年、川村さんの代になってからでもすでにちょうど10年だ。

 

 

僕が初めて「マルディ・グラ」に行ったのがいつだったかは正確には覚えていないのだが、2000年に行ったときは初めてではなかったので、その前に行っているはずだ。ひょっとしたら、あの近くに住んでいるFM局のディレクターをやっていたC氏に連れられて行ったのかもしれない。この店名から「音楽関係のバー」だということはわかる。(笑)

 

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エスピガ。

 

さて、さきほどの「レノマス」だが、彼は1983年頃、「レノン・ストリート」も経営しながら、同じ自由が丘に「エスピガ(espiga)」というレストランをオープンした。これはスペイン語で「穂」といった意味らしいが、メキシコ系の食事をだしていた。「カフェ・バー」という言葉はこの頃までにかなり浸透したが、「カフェ・バー」というよりレストラン、しかし、若い人も入れるカジュアルなレストランだった。「レノン・ストリート」よりもっと広く明るい店になっていた。そして、そこはレストランなのに音楽好きのオウナーの趣味を反映し、店の中央の一段高いところにターンテーブルが2台あり、BGM的にDJをやっていた。レストランでDJブースがある店など、あの時代には他にはなかった。

 

そこで、「レノン」時代からのつきあいだった「レノマス」から、「週一でもいいからDJをしないか」と誘われた。そして、僕は週一でDJを始めたのだ。オープンしてまもなくだったので、やはり1983年頃のことだろう。僕は毎週水曜に入ったが、そのとき、別の曜日に別のDJが入った。たぶん、彼は金曜あたりだったような記憶なのだが、違うかもしれない。それがUKロックの大家・音楽評論家の大貫憲章さんだ。

 

僕は、どういう選曲をしようかいろいろ考えたのだが、ちょうどその頃存在を知ったアメリカのラジオで流行りだした「クワイエット・ストーム」のフォーマットを真似してやろうと思い、その路線で選曲をした。当時は「ラウンジ」などという言葉はなかったが、今から思えばまさに「ラウンジDJ」だった。

 

 

この「クワイエット・ストーム」を取り入れたのは、相当早かった。ちゃんと向こうのラジオのように、波の音とか、鳥の鳴き声とか、エアポートの音などの効果音を曲間にはさんでかけた。ターンテーブルは2台しかなかったので、効果音は事前にカセットに録音してかけたり、効果音のレコードなら、2-30秒かけている間に次の曲をセットするという早業をやっていた。

 

アメリカで「クワイエット・ストーム」がブレイクするのが1985年から1986年以降なので、かなり時代の先を行っていたかもしれない。僕はサンフランシスコのKBLX局のテープを入手したか、誰かから話をきいたかで、「クワイエット・ストーム」のことを知った。だが「クワイエット・ストーム」の歴史自体を知るのは、そのずっと後のことだ。当時のソウルのスロー・ジャム(そんな言葉もなかった)と若干のフュージョン系インストゥルメンタル曲に効果音。自分でいうのもなんだが、けっこういけてた。たぶん、「エスピガ」でやっていたものも、何本かカセットに録音して自分でも楽しんでいたように思う。

 

ところで、先ほどからずっと「レノン・ストリート」のマスターのことを「レノマス」としか書いてないのには、わけがある。実は「レノマス」の本名を思い出せないのである。(笑) 当時はもちろん知っていたのだが・・・。ずいぶん昔のことなので、かなり記憶がおぼろげである。情けない。(笑)

 

(この項、続く)

 

(明日は、なぜ大貫さんと僕がこの店でDJをすることになったか、などについてご紹介します)

 

ENT>MUSIC>ESSAY>Jiyugaoka

 

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西麻布

2007年08月23日(木)

https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10044572882.html

 

(昨日からの続き。舞台は自由が丘から西麻布へ)

 

【自由が丘へのルーツ】

 

西麻布。

 

なぜ、大貫さんと僕が「レノマス」に「エスピガ」のDJとして誘われたか。

 

それから遡ること3年余。1979年夏。僕は西麻布にあったDJバー「トミーズ・ハウス」という店に足を運び入れた。西麻布に住む友人が、「半地下からいい音が聞えてくるなんか面白そうな店があるから、行ってみよう」といって誘ってくれたのだ。六本木交差点から西麻布の交差点に向かい、左側を歩いていくと、交番の手前にその店はある。階段を数段下りて入っていくと、中では大音響で音楽が流れていた。

 

レノマス=土田さん

 

たくさんの曲を聴いたが、特に印象に残っていたのはちょうどその頃全米で流行っていたハーブ・アルパートのインストゥルメンタル曲で全米ナンバーワンになる「ライズ」だ。10坪程度の小さな店だったが音響に凝っていて、JBLとウーハーがものすごくいい音を出し、当時の流行の洋楽曲がかかっていた。カウンターは対面で客が座るようになっていて、そのテーブルには、バックギャモンのゲーム盤が作りつけられていた。店のスタッフは、ローラースケートを履いてドリンクを運ぶという、当時としてはかなり斬新な、しかもアメリカナイズされた店だった。バックギャモンのゲームを覚えたのもこの店だった。

 

 

 

 

 

オウナーはトミーで、彼は洋楽も最先端のものから、邦楽も洋楽寄りのものを厳選してかけていた。初めて足を踏み入れたその日、僕はそこの店の音の良さ(音響の良さと選曲の良さ)にほれ込み、以来頻繁に通うようになり、そのうちトミーに誘われひまな時間にDJをするようになったのだ。それがいつしかレギュラーで週末にDJをするようになった。僕は毎週金曜と土曜の夜10時半から夜中の3時まで4時間半、ノンストップで立ちっ放しでDJをした。僕がかけたのはほとんどソウル、ディスコばかりだった。

 

(トミーさん)

 

毎日深夜3時。店のクロージング・テーマは決まっていた。毎日、週末も平日も、深夜3時になると、「トミーズ・ハウス」では必ずこの曲がかかかり、この曲とともに暗かった照明が明るくなった。それが山下達郎さんの「ラスト・ステップ」だ。僕が達郎さんの音楽を知ったのがこの「トミーズ・ハウス」だったといっても過言ではない。トミーが達郎さんのレコードを大変好きで、洋楽曲の中にぽっと達郎さんのレコードをはさみこんでよくかけていた。彼が1980年に大ブレイクする前の話である。

 

 

 

 

1979年。

 

1979年夏というと、ソニーのウォークマンが世に出たときである。さっそく新しいもの好きの編集者などがそれを持って「トミーズ」にやってきたことを思い出す。初めてウォークマンを聴いたときの驚きといったらなかった。これはとんでもないものがでてきたと思った。

 

 

この「トミーズ・ハウス」はまもなくその音の良さで音楽関係者やファッション業界、雑誌編集者などが多数来るようになる。そんな中に大貫さんがいた。僕もそこで大貫さんと知り合うことになるのだが、大貫さんもトミーに誘われ、毎週水曜日にDJをすることになったのだ。大貫さんは、1980年に「ロンドン・ナイト」のイヴェントを始めていて、ほぼ同時期にこちらでもDJをやりだした。大貫さんと僕の選曲は決してかぶることがないので、それはそれでおもしろい。

 

ここで強烈に印象に残っているのは、さきほどの「ライズ」以外では、マクファーデン&ホワイトヘッドの「エイント・ノー・ストッピン・アス・ナウ」、クルセイダーズの「ストリート・ライフ」、マイケル・ジャクソンの『オフ・ザ・ウォール』のアルバムなどだ。「トミーズ・ハウス」での思い出もけっこうあるので、いずれ別の機会にでも書いてみよう。

 

そして、自由が丘の「レノマス」は、よくこの「トミーズ・ハウス」に遊びに来ていた。そこで、僕や大貫さんと知り合い、「エスピガ」でのDJへとつながっていくのだ。

 

(大貫憲章さん)

 

ところが、その「エスピガ」は、あるときキッチンでちょっとしたボヤを出してしまう。僕はたまたまその日店にいたのだが、DJは終わっていたか、休憩中だった。キッチンの方から火がでてびっくりした。しかし、よくある料理のときにフライパンなどから瞬間火がぼーと燃え上がるのかと思っていたら、それがなかなか消えず、あれと思ったら、瞬く間に煙がでてきた。あわてて「火事じゃない?」と言って、店のスタッフがお客さんを店外に出した。結局、そのボヤは自力で消し大事には至らなかったのだが、その日は当然営業中止。確か店はキッチンが使えないためにしばらく休業し、これを機に、そのままクローズしてしまったように記憶する。

 

「エスピガ」をやめてからは「レノマス」とは疎遠になってしまい、近況はわからない。しばらくしてアメリカに行ったことを風の便りに聞いたくらいだ。

 

だが今回、「マルディ・グラ」が、実は以前「レノン・ストリート」の跡地だったという小さな事実を確認できたことは、個人的には大きな収穫だった。自由が丘の何の変哲もない交差点の角にあった昔の店と今の店。世田谷区奥沢5-29-10、この小さな角地には音楽好きの神が宿っているのかもしれないなどと無理やりにこじつけてみたくなった。

 

(この項、終わり)

 

 

 

ENT>MUSIC>ESSAY>Jiyugaoka

 

 

 

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キャッチ

2007年09月03日(月)

https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10045815876.html

 

【「レノマス」を捕まえた!】

 

キャッチ。

 

2007年8月19日(日)に、自由が丘の「マルディ・グラ」で「ソウル・サーチン・ビデオ・ナイト」というささやかなイヴェントを行った。そして、そのときに「マルディ・グラ」のマスター、川村さんとその界隈の話をして、そこに思い出の「レノン・ストリート」という店があったことがわかった。そして、そのことを下記ブログに書いた。

 

August 22, 2007

Mardi Gras: Memory Of Jiyugaoka, Back In The Day (Part 1)

【マルディ・グラからつながる自由が丘の思い出】

 

August 23, 2007

Memory Of Jiyugaoka, Back In The Day (Part 2)

【自由が丘へのルーツ】

 

このとき、僕はかなり「レノン・ストリート」のことを調べたのだが、思ったほどの情報はでてこなかった。「レノマス」の名前も忘れてしまったほどである。一応、記憶に基づいて書いて、それなりの裏は取ったのだが、な、な、なんと今日、「レノン・ストリート」に検索をかけると、その「レノマス」本人のブログがヒットするではないか。10日前にはヒットしなかったのに。この10日で何があったのか。(笑) それとも、以前の検索がなにか、不十分だったのか。謎だ。彼のブログは今年の3月から始まり、6月くらいまで書かれているのだが、ここ2ヶ月はごぶさたになっている。

 

そのブログがこれ。

http://blog.goo.ne.jp/lenomas

 

彼がどのようにして、「レノン・ストリート」を始めたのかなどが書かれていて思わず読んでしまった。そして、ここに映っている写真こそ「レノマス」だ! 超懐かしい! メールアドレスまで「レノマス」ではないか! なんというインターネットの世界。20数年音信不通だった人物とこうして連絡が取れるようになるなんて。

 

「レノン・ストリート 自由が丘」の検索で、新たにひっかかった記事から読み込んで「レノマス」の名前がわかった。「土田」さんだった。そうだ。そうだ。「レノン・ストリート」で検索すると、すでにいくつか僕のブログも出てくる。ほかに、前回のリサーチで読んだタイトルもあるが、見かけなかったものもある。

 

この発見に感動して、僕はすぐさま「レノマス~土田さん」にメールを送った。

 

ブログを読むと、西海岸でアメリカ人の奥さん、子供とともに幸せに過ごされているようだ。

 

果たして、メールの返事は来るかな。

 

ENT>ESSAY>Lennon Street

 

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返事

2007年09月06日(木)

https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10046374694.html

 

【レノマスより返事届く~情報は天下の回りもの】

 

返事。

 

1970年代後期から1980年代にかけてよく顔をだしていた自由が丘の「レノン・ストリート」とその周辺の話について、調べたり、書いたりしているうちに、その「レノン・ストリート」のマスター「レノマス」氏が今年の3月からブログを書いていたことが判明し、さっそくメールを送った。ついにその返事が届いた。

 

「レノマス」こと土田さんは、1989年にアメリカに移住、いわゆる飲食業界からは足を洗い、現在はカリフォルニアで不動産関係の仕事をしているとのこと。カリフォルニアで仕事をしているときに、いつもふと「あの頃の仲間たちは、みんなどうしているんだろう」と思っていたそうで、それがブログを始めた動機だという。メールとともに、きちんとした写真館で撮影されたような写真も送られてきて、その写真マスターからは昔の面影が漂っていた感慨深かった。

 

土田さんは、最近のテクノロジーの発展には目を見張るものがあり、なんでもコピー&ペーストで、簡単に情報も出せたりするようになっているが、過去の「思い出」や、これまでの「自分のキャリア」というものは、簡単にコピーもペーストもできないものだと指摘している。おっしゃる通りだと思う。

 

彼のブログは2007年3月から6月くらいで、更新が滞っているが、ぜひとも続きを読みたい。

 

ところで、これはインターネットが普及する前から強烈に感じていることなのだが、情報というものはひじょうにおもしろいもので、情報は発信すればするほど、集まってくるのだ。

 

たとえば、レノマスがブログというものでレノン・ストリートについての情報を発信したために、僕のような人間がひっかかって連絡を取った。かつては、その媒体が新聞や雑誌やラジオ、テレビといった限られた媒体でしかなかったが、今では誰でもこのインターネットという媒体を使うと簡単に情報発信できる。

 

僕も2002年にインターネットでホームページを始めてから細々と情報を発信してきたが、やはりブログを毎日書くようになってから、以前よりも多くの情報が集まるようになった。それはBBSへの書き込みしかり、直接のメールしかり、どこかで会ったときに口頭で話しかけられたりとさまざまだが、「出すと入ってくる」という感触がある。

 

そして、そうした情報のいくつかは、改めてブログに書いたり発信し、さらにそれにつれられてまた何かが集まってきたりする。まさに「情報は天下の回りもの」なのだ。インターネットの発展によって、それに加速度がついている感じがする。

 

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「情報は天下の回りもの」をどう表現するか。

 

「金は天下の回りもの」=Money comes and goes. あるいは、 Money makes a round of the world. あるいは What goes around comes around. などと言えるようだ。それに倣ってタイトルをつけたみた。

 

■過去関連記事

 

August 22, 2007

Mardi Gras: Memory Of Jiyugaoka, Back In The Day (Part 1)

【マルディ・グラからつながる自由が丘の思い出】

 

August 23, 2007

Memory Of Jiyugaoka, Back In The Day (Part 2)

【自由が丘へのルーツ】

 

September 03, 2007

We’ve Got A Clue Of "Lenomas", Wow

 

ENT>ESSAY>Lennon Street

 

自由が丘 レノンストリート レノマス

 

 

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(2020年8月12日追記)

 

その後、風の便りにレノマスこと土田さんがアメリカでお亡くなりになったと聞きました。正確な日時などはわかりませんでした。ご冥福をお祈りしたいと思います。

 

西麻布・トミーズ、自由が丘・レノンストリート、エスピガ…。ちょっと青春の一ページでした。

 

 

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