自由が丘 | 吉岡正晴のソウル・サーチン

吉岡正晴のソウル・サーチン

ソウルを日々サーチンしている人のために~Daily since 2002

【マルディ・グラからつながる自由が丘の思い出】



自由が丘たいへいた



自由が丘の駅から東横線沿いに日吉方面に右側の道を歩いていくと四つ角がある。左に曲がると上が東横線が走るガード。右角に雑貨屋があり、その地下に「マルディ・グラ」がある。



『ガンボズ・イアーVol.12~ソウル・サーチン・ビデオ・ナイト』でお世話になった「マルディ・グラ」は、名前から想像できるように、ニューオーリンズ気分にしてくれる音楽のある店だ。壁には何枚もの1970年代のロックやソウルのレコードのジャケットが額に入れて飾られている。ここで守島さんのイヴェント『ガンボズ・イアー』の第1回が行われたのが2000年10月。ちょうど同年7月に拙著『ソウル・サーチン』が発売され、「発売記念イヴェントは別にないです」と言ったら、守島さんが「じゃあ、なにかやりましょう」ということで企画してくださった。



それから7年を経て、再び、ここで「ガンボズ・イアー第12回」に参加したのだが、実は、この会場「マルディ・グラ」のある場所については以前から気になっていた。



レノン・ストリート。



その昔、1970年代後半から自由が丘で僕がよく行く店があった。それは「レノン・ストリート」という当時比較的おしゃれな店だった。それこそ田中康夫氏の小説『なんとなく、クリスタル』(1980年)に出てきそうな(ひょっとしたら出てきていたかもしれない)店だ。まだ「カフェ・バー」という言葉が生まれる前に、新しめの洋楽のレコードをかけていた「カフェ・バー」風の店だった。たぶん1978年か1979年あたりのことだったのだろう。



で、7年前(2000年)に「マルディ・グラ」に来たときに、この辺に「レノン・ストリート」があったような気がおぼろげにしていた。そのときは、すっかりそれを確かめるのを忘れたのだが、日曜日(8月19日)に久しぶりに行った「マルディ・グラ」のオウナー川村さんに尋ねた。



すると、やはり、この地はまさにかつて「レノン・ストリート」があった場所だったのだ。「レノン・ストリート」の入口は東横線沿いだったが、「マルディ・グラ」の入口がそれと直角に交わる道にあるので、ちょっとわからなかったのだ。川村さんによれば、この場所は「レノン・ストリート」のマスター(僕や仲間たちは当時彼のことを「レノン・ストリートのマスター」ということで略して「レノマス」と呼んでいた)の両親が持っていたもので、建物を一部改装し、2階に住居、1階部分を「レノン・ストリート」という店にしていたのだという。もちろん、「レノマス」は、ジョン・レノンが大好きだったから、この店名にした。



「レノン・ストリート」も店内はブラックを基調にしたいい店で、レコードジャケットを壁に飾っていた。ビートルズや西海岸のイーグルスや、マイケル・フランクスやら、ちょっとしたソウル系、フュージョン系のレコードをそれほど大音量ではなくかけていた。



そして1980年代後期か1990年代初期に、「レノマス」はアメリカ人女性と結婚し、アメリカに移住することになり、この土地を売却、新たに買い求めた人が3階建てのビルを建て、その地下1階に「マルディ・グラ」がはいったらしい。



「マルディ・グラ」は最初のオウナー、ミックさんが1992年にオープン。しかし、1997年10月彼は事情で九州・熊本県人吉市に引っ越し、そのときにミックさんから現在のオウナー川村さんが店を引き継いだ。ミックさんは熊本でも、やはり「マルディ・グラ」のようなレコードをたくさん置いている音楽バー「ベアーズ・カフェ」という店を経営されている。ミックさんは、「マルディ・グラ」の前には青山で「サル・パラダイス」という店もやっていたというから根っからのミュージック・マンのようだ。「マルディ・グラ」はオープンして15年、川村さんの代になってからでもすでにちょうど10年だ。



僕が初めて「マルディ・グラ」に行ったのがいつだったかは正確には覚えていないのだが、2000年に行ったときは初めてではなかったので、その前に行っているはずだ。ひょっとしたら、あの近くに住んでいるFM局のディレクターをやっていたC氏に連れられて行ったのかもしれない。この店名から「音楽関係のバー」だということはわかる。(笑)



エスピガ。



さて、さきほどの「レノマス」だが、彼は1983年頃、「レノン・ストリート」も経営しながら、同じ自由が丘に「エスピガ(espiga)」というレストランをオープンした。これはスペイン語で「穂」といった意味らしいが、メキシコ系の食事をだしていた。「カフェ・バー」という言葉はこの頃までにかなり浸透したが、「カフェ・バー」というよりレストラン、しかし、若い人も入れるカジュアルなレストランだった。「レノン・ストリート」よりもっと広く明るい店になっていた。そして、そこはレストランなのに音楽好きのオウナーの趣味を反映し、店の中央の一段高いところにターンテーブルが2台あり、BGM的にDJをやっていた。レストランでDJブースがある店など、あの時代には他にはなかった。



そこで、「レノン」時代からのつきあいだった「レノマス」から、「週一でもいいからDJをしないか」と誘われた。そして、僕は週一でDJを始めたのだ。オープンしてまもなくだったので、やはり1983年頃のことだろう。僕は毎週水曜に入ったが、そのとき、別の曜日に別のDJが入った。たぶん、彼は金曜あたりだったような記憶なのだが、違うかもしれない。それがUKロックの大家・音楽評論家の大貫憲章さんだ。



僕は、どういう選曲をしようかいろいろ考えたのだが、ちょうどその頃存在を知ったアメリカのラジオで流行りだした「クワイエット・ストーム」のフォーマットを真似してやろうと思い、その路線で選曲をした。当時は「ラウンジ」などという言葉はなかったが、今から思えばまさに「ラウンジDJ」だった。



この「クワイエット・ストーム」を取り入れたのは、相当早かった。ちゃんと向こうのラジオのように、波の音とか、鳥の鳴き声とか、エアポートの音などの効果音を曲間にはさんでかけた。ターンテーブルは2台しかなかったので、効果音は事前にカセットに録音してかけたり、効果音のレコードなら、2-30秒かけている間に次の曲をセットするという早業をやっていた。



アメリカで「クワイエット・ストーム」がブレイクするのが1985年から1986年以降なので、かなり時代の先を行っていたかもしれない。僕はサンフランシスコのKBLX局のテープを入手したか、誰かから話をきいたかで、「クワイエット・ストーム」のことを知った。だが「クワイエット・ストーム」の歴史自体を知るのは、そのずっと後のことだ。当時のソウルのスロー・ジャム(そんな言葉もなかった)と若干のフュージョン系インストゥルメンタル曲に効果音。自分でいうのもなんだが、けっこういけてた。たぶん、「エスピガ」でやっていたものも、何本かカセットに録音して自分でも楽しんでいたように思う。



ところで、先ほどからずっと「レノン・ストリート」のマスターのことを「レノマス」としか書いてないのには、わけがある。実は「レノマス」の本名を思い出せないのである。(笑) 当時はもちろん知っていたのだが・・・。ずいぶん昔のことなので、かなり記憶がおぼろげである。情けない。(笑)



(この項、続く)



(明日は、なぜ大貫さんと僕がこの店でDJをすることになったか、などについてご紹介します)



ENT>MUSIC>ESSAY>Jiyugaoka