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〇レディオ・ディスコでマヌ・ディバンゴの話~ソウル・マコッサは世界に拡散

 

【Manu Dibango On Radio Disco】

 

訃報。

 

アフリカ大陸カメルーン出身のサックス奏者、マヌー・ディバンゴがコロナウィルスで急逝した話を、2020年3月28日(土)『レディオ・ディスコ』の「ディスコ・サーチン」の中でした。

 

訃報→

マヌー・ディバンゴ、コロナで86歳で死去

2020年03月25日(水) 0

https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-12584574860.html

 

ディバンゴの「ソウル・マコッサ」が世界的な大ヒットになったのは、アメリカ、ニューヨークのディスコで一人のDJによって発掘ヒットさせられたからだ。

 

 

それがデイヴィッド・マンキューソーというパーティー・オルガナイザー、DJだ。彼は自身のロフト(アパートの大きめの一室)で知り合いだけを招いてやっていたパーティーが徐々に大きくなっていき、ディスコ黎明期の大きなうねりとなったダンス・パーティーを主催していた。彼のパーティーには当初名前はなかったが、ロフトで行われているからみながいつのまにか「ロフト」のパーティーというように言い始めた。

 

このマンキューソーの最初のパーティーは1970年のヴァレンタインデイだったというが、以後毎週土曜日深夜24時から朝までパーティーが続いた。基本的には「招待者オンリー」のパーティーだが評判を呼び大きなパーティーになっていった。

 

 

そこでマンキューソーはDJのようにレコードをかけていたが、そんな中に「ソウル・マコッサ」があった。これはフランスからの輸入盤で、輸入盤7インチがほんの数枚フランスの雑貨を売っている店で売っていたのをマンキューソーが買って、ロフトでかけたところ、火が付いた。

 

そして、この動きに敏感に反応したのが、ニューヨークの人気ラジオDJであるフランキー・クロッカーだった。彼は自身のWBLSの番組でこれをひんぱんにかけニューヨーク地区で大ヒット。1972年のことだ。輸入盤でアメリカ盤がなかったことから、すぐにそっくりのカヴァーが出て、アメリカで出た。アフリークというスタジオ・ミュージシャンを集めたバンドのレコードだ。

 

一方オリジナルのフランス盤はアメリカのアトランティックが発売権を取り、国内リリース。ほぼ同時に出て、どちらもヒットになっていく。

 

そして、アメリカのディスコでも、また世界各地でも大ヒットに結びついていく。

 

で、フランスから出た1枚のシングル盤がその後、ニューヨークのディスコDJにピックアップされ、それがラジオDJにピックアップされ、全米に広まり、さらに、そこから世界各国にわたり、世界的な大ヒットになっていく様が、まるでコロナウィルスが世界中に広まるようだった、と話して、そんなディバンゴが最後にそのコロナウィルスにやられてしまうというところが、なんという因果か、とちょっとこじつけてしまった。

 

マンキューソーがやっていたアンダーグラウンドなディスコ・パーティーについて、音楽ジャーナリストのヴィンス・アレッティーが1973年、ローリング・ストーン誌に「ディスコ・パ~~~~ティー」という記事を書き、そこでも「ソウル・マコッサ」を紹介。

 

マンキューソーのパーティーなどについてはニューヨーク・ディスコの黎明期の話なので、またゆっくりできればと思う。

 

ENT>DISCO>Dibango, Manu

ENT>DISCO>Soul Makossa

 

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