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●マヌー・ディバンゴ、コロナで86歳で死去

 

【Manu Dibango Dies At 86 Due To Corona Virus】

 

訃報。

 

アフロ・ジャズ・ファンクを作りあげた第一人者の一人、マヌー・ディバンゴ Manu Dibango (Emmanuel N'Djoke Dibango) 2020年3月24日パリ郊外の病院でコロナウィルスの感染症のため死去。86歳。先週体調を崩し入院していた。

 

 Manu Dibango performing in 2005. Photograph: Emmanuel Fradin/Reuters

 

フランス領カメルーン出身のサックス奏者で「ソウル・マコッサ」が1973年世界的大ヒットになった。

 

 

Manu Dibango, Cameroon jazz-funk star, dies aged 86 of coronavirus

Musician who influenced Michael Jackson dies in Paris hospital from Covid-19 infection

Ben Beaumont-Thomas

Tue 24 Mar 2020 10.23 GMT

https://www.theguardian.com/music/2020/mar/24/manu-dibango-dies-coronavirus-cameroon-jazz-funk

 

https://bbc.in/2UdyNNw 

 

「ソウル・マコッサ」→

https://bit.ly/2WA0cuS

 

この「ソウル・マコッサ」の「マ、マ、マ、マコッサ」という印象的なフレーズは様々なアーティストに引用されてきたが、特にマイケル・ジャクソンがアルバム『スリラー』のトップを飾る「ウォナ・ビー・スターティン・サムシン」でうまく使った。のちにマイケルがこの「ソウル・マコッサ」を引用したことを認め、示談金を支払った。その後、リアーナが2007年「ドント・ストップ・ザ・ミュージック」でマイケルの部分を引用、再び、使用料を巡り裁判となり示談金が支払われた。

 

また1980年代後期、90年代に入ってからはいわゆる「ワールド・ミュージック」というくくりで再度注目されるようになった。

 

「マコッサ」とはカメルーンのドゥアラ語で「ダンス」の意味。よって「ソウル・マコッサ」は「ソウル・ダンス」という意味。

 

多くのアメリカ、イギリスのジャズ・ミュージシャン、たとえばハービー・ハンコック、ビル・ラズウェル、ファニア・オールスターズ、バーニー・ウォーレル(Pファンク)などのほか、キング・サニー・アデなどともコラボし、アフリカ音楽と様々な音楽の融合を試みワールド・ミュージックの世界に彩を添えた。

 

評伝。

 

マヌ―・ディバンゴは1933年(昭和8年)12月12日、カメルーンのドゥアラ生まれ。サックスのほかにヴィブラホーンもプレイする。十代でフランスに移り、フランスのハイスクール時代に楽器をプレイするようになり、ピアノ、サックス、ヴィブラホーンなどを始めた。以後、母国などと行き来し、1965年以降はフランス・パリを拠点として活躍してきた。フランスのアーティストとして見られることもあった。

 

1972年リリースのシングル盤「ソウル・マコッサ」がフランス経由でアメリカのディスコに入り大ヒット。

 

「ソウル・マコッサ」は当初フランスの輸入盤だったのでアメリカ盤がなくスタジオ・ミュージシャンを寄せ集めたアフリーク Afrique というグループで速攻でカヴァーを作りリリース、これもそこそこのヒットになった。ここにはデイヴィッド・T・ウォーカーなども参加している。

 

その後もこの「ソウル・マコッサ」のカヴァー、フレーズのサンプリングなどが多数誕生した。

 

アフリークのヴァージョン→

https://bit.ly/3drVV2H 

 

オリジナルをそっくりコピーしている。

 

これはニューヨーク・ディスコ・シーンでも最重要曲のひとつ。ディスコが1974年メジャーな存在になる前のアンダーグラウンド時代にマヌー・ディバンゴらのものがヒットした。

 

1973年、ニューヨークのアンダーグラウンドだったディスコの動きを察知した音楽ジャーナリストのヴィンス・アレッティーがローリング・ストーン誌1973年9月13日号で「ディスコティック・ロック ‘73 パ~~~ティー!」という記事を書いた。アレッティーはニューヨークで起こり始めていたそうしたプライヴェート・パーティーやディスコを取材し、そこでかかっている音楽、雰囲気、どのようなことが起こっているかをレポートした。

 

この記事ではディスコには、白人だけでなく、黒人、ラテン系、そしてゲイの人々も多く集まっており、そこでかかるレコードは通常ラジオでかかるようなヒットだけでなく、ディスコだけでしかかからないような曲が人気となっていると書いている。そうした一例としてマヌー・ディバンゴの「ソウル・マッコサ」をピックアップ。これは当初フランス盤が数枚ニューヨークに輸入され、それらが一部のディスコでかかり始めたところ人気となった。

 

一方、オリジナル盤もアトランティック・レコードがライセンス契約をして全米にリリース。どちらもヒットしていく。特にこの曲は、ニューヨークの人気ブラック・ラジオ局WBLSのDJフランキー・クロッカーが注目し、自身のプログラムでヘヴィー・ローテーションでかけたこともあり、ディスコでヒットしたものが、その後ラジオでもヒットするに至った。

 

アルバムも1968年以降、50枚以上でている。

 

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ブラザー。

 

「ソウル・マコッサ」は1973年輸入盤が入ってきてすぐに六本木のディスコ「エンバシー」で僕もよくかけていた。ほぼ同時にアフリークとつなげてかけた。ノリはいいのだが、ディスコやその他、アメリカのファンク、R&Bのレコードなどのバスドラの強い物と比べると軽いノリでブラザー達も最初は戸惑っていたが、曲がトップ40などでヒットし知られるようになると、みんな踊った。

 

それにしても、この時期、コロナ・ウィルスでの死去とはなんともやるせない。

 

OBITUARY>Dibango, Manu (December 12, 1933 – March 24, 2020, 86 year old)

 

 

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