営業というお仕事 | 相場残日録(元相場師天の日記)

相場残日録(元相場師天の日記)

プロの相場師「天」の引退後のブログ、残日録として記していきます。

五か月前にこんな記事を書きました。

 

 

その最後の記述

以下抜粋

「しかし、1年後運用会社の社長になったその人から言われました。

「銀行の人事にねじ込んだんだけど、お前のとこの部長が、

余人をもって代えがたしと応じてくれなかった」 とのこと・・・・

「まじですか!」

心の中で、しまった 新しいところで働き過ぎた・・・・

こうして、私の最高の6年間が本当に終わりました・・・・

しかし、実はその時には私の心境にも変化が・・・

ライバルを出し抜き、難しい案件を落とす快感

その楽しさにも目覚めつつある私でした。」

抜粋終わり

 

信託の運用マネージャー時代の6年間を含め

プロの相場師としての15年間が終わり

その後の私のキャリアは、「営業」に変わりました。

 

プロの相場師としてのキャリアが終わることを告げられた時

ショックで・・・・・ 人生終わった という気になり

しばらくは、ふさぎ込んでいて かみさんに随分心配をかけました

「営業」というお仕事 

正直、銀行員の新人時代にちょっとかじった程度

それが、40歳を超えて自分の仕事に

その営業の仕事は、信託の法人営業

具体的には、

まず、当時はやり始めていた「企業型確定拠出年金」=「DC」

その運営管理機関を獲得すること、そしてラインアップの運用商品に

自分の金融グループの商品を採用させること

2つ目は、自分の金融グループの信託銀行の「確定給付企業年金」

のシェアーを獲得もしくはシェアーアップをすること

最後が、上場企業の株式管理事務=証券代行事務を

自分の金融グループの信託銀行によそから付け替えること

かなり専門性の強い営業の仕事

但し、実際の業務はグループの信託銀行・DC運営管理機関が担当

彼らと協力=協働して、銀行の取引先にアプローチすることです。

 

はっきり言って、営業の仕事のノウハウ・スキル・経験はないに等しい

それを今から学ぶには時間もない

だから、今の自分なりに知恵を絞り、足を使い、汗をかき

ターゲットを落とすために、できることは何でもやりました。

結果、意外にも、凄い実績が出て、自分でもびっくり。

かみさん曰く

「私は、営業に向いていると思っていたよ」 とのこと

支えてくれたかみさんに感謝です。

 

そうこうするうちに、難しいターゲットを「落とす」快感に

酔いしれている自分がいました。

 

しばらくすると、他の金融グループと私のグループの合併があり

大きな組織変更がありました

元の出自を数えると、銀行が4行、信託銀行3行が一緒になった

巨大金融グループ、それが一体となって法人信託営業を推進する

その為に金融グループの銀行・信託が一体となった新組織が出現

その組織は、信託の出身者が部長、銀行出身が副部長

全国を5つに分けて、東京に3つのチーム 名古屋・大阪に1つづつ

そうして、全国をカバーする体制に

その東京のチームのひとつのチームリーダーに私は選ばれ、

10人の部下を持つ身になりました。

所謂、管理職になると、はっきり言って「つまらない」

この会議意味があるの?という会議・会議の連続、

担当先もないので、お客さんところには部下と一緒に行くしかない

しかし、私の方針は自分が管理されるのが大嫌いなので放任主義

「全責任は俺が取るから、自分の思う通り自由にやれ。ただしトラブルになったら その後始末は俺の仕事」

 

だから、部下は一人で行く 暇でした・・・会議もつまらない・・・・

なので、ふと思いついたのが 「そうだ自分で担当エリアを持とう」

私のチームのカバーエリアは、

東京が 日本橋・京橋・銀座・上野、中央線沿線

それに 神奈川、千葉、北関東、新潟 それを10人で担当

目を付けたのは、東京の京橋と新潟を担当していた若い担当者

彼の収益目標は半期1億円ちょっとのうち京橋がほとんどで

新潟はわずか3百万円程度

その割には月1回新潟に出張して時間と手間暇を消費していました

彼から、新潟を取り上げ自分の直轄にしました。

費用対効果を考えて、彼を京橋に集中させるという理由です。

新潟を直轄にしたのは、ポテンシャルがあると考えたから

大合併した金融グループ4つの銀行と3つの信託銀行のうち

新潟に拠点があったのは銀行ただひとつ

うちの金融グループが法人信託営業を推進するにはとても不利な地域

しかし、新潟証券取引所がかつてあった地域で地方のわりには

上場企業が多い、しかも我がグループには信託未開の地

それを 私が自ら新規開拓するという大義名分を掲げました。

まあ、出張しまくって、つまらない会議さぼれることと

そして、なにより お酒と食べ物が美味い! 

それが最大の目的! 笑 ひどいチームリーダーだ

 

しかし、仕事はしましたよ

結果は、半期収益目標3百万円のエリアで実績が70百万円

達成率2,300% 銀行の新潟支店の支店長には感謝されましたね

部内や銀行、信託内でも かなり話題になり

慌てふためいたのは 私の部下たち

収益目標半期みんな1億円ちょっとだったので

成績が悪いと、実績60百万円とかあります

私は 部下に 「おれと目標比ではなく絶対値での勝負だ!」

そう言いはなっていましたから

そりゃあ 慌てますよね 笑

おかげで 私のチームの成績は素晴らしいものでした。

 

わずか2年でしたが いいチームでした

私が 51歳で銀行を退職するときにお祝い会を開いてくれて

銀行から転職した信託会社を辞めて福井に単身赴任する前にも

少し落ち込んでいた私を壮行会で元気づけてくれました。

 

 

組織の中で、人事権を持って部下を持ったのは その時だけですね

いいチームでした。みんなに感謝です。

信託出身の部長は役員に栄転で出身の信託に栄転

その送別会の席で、二人になった時

「この部が4期連続表彰を取れたのは君のおかげだ

本当にありがとう」 と言われました。

しかし、

そんな破天荒なチームリーダーは

典型的な銀行員の人たちからは目障りだったのですかね??

なんとプライベートバンクの別会社へ

青天のへきれきの人事異動が

部長が変わった途端の人事

それも銀行内の職務レベルも横滑り

リーダーの職位がなくなり 単なる担当者としての異動

実質降格人事・・・・

これに、私の部下たちが 爆発  

なんでなんだ! と 大変な騒ぎ

私の部下の一人が

次のリーダーリーダーとなりましたが

「チーム天」の名前はそのままにします。

これは 私の抗議の意思です。

そう宣言してくれました。

こんなうれしいことないですよね

懐かしい 想い出

 

3年半の信託法人営業時代

その時の経験は、信託会社時代

西日本の地方銀行への代理店アプローチに随分役に立ちました。

今につながる「信託」のキャリアの貴重なベースになっています。

 

 

 

その後、営業ができて相場がわかる貴重な人材として

外資との提携でできたプライベートバンキングの新会社に

私は、戦略的に送り込まれることになります 

その会社は 銀行と外資の50%づつの折半出資

しかし、外資が優先株を持ち社長も外資出身

会社のオフィスも外資のオフィスそのまま

プラットフォームもノウハウも人員も全て外資の持ち物

外資が圧倒的なマジョリティーを持つ合弁会社に

ちいさなマイノリティーとして入れ込まれた

そこでは 

邦銀銀行員の意地とプライドをかけた、

外資との組織内での壮絶な戦いが待っていました。

 

以上