AIのヤツめ… | sorariri89のブログ

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「30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい」の
ヤフー「みんなの感想」から広がったブログです。書くことが好きで、日々の出来事から感じたことや自分のこと、ドラマのことやエッセイ、詩、時には小説、など綴っていきますので、どうぞ宜しくお願いいたします。

今朝の朝日新聞で読者投稿欄に目が留まりました。

いつも様々な世代、立場、性別の投稿を掲載している「」欄ですが、時々テーマを絞ったり、若い世代の声を一部ピックアップしたりしています。

今日はその若い世代で、大学生・高校生・中学生・小学生を一人ずつ取り上げていて、私はその中の一人、千葉県の高校生の投稿に興味を惹かれました。17歳で、名前から察するに男の子だと思います。

以下引用させていただきます。

 

「美とは刹那 切り取られた時間」

雪は永遠だろうか? 否。月は永遠だろうか? 否。すれば風は永遠だろうか? もちろん否。花もまた散るときが来る。美とはきっと永遠のものではない。では美とは何か?私は考え、一つ目の答えに至った。美とはきっと刹那だ。切り取られた時間だ。美とはきっと終わりだ。

花は美しいが枯れてしまえば輝きは消える。鳥は飛び立つ瞬間こそが最も美しい。風はときに私たちを冷たく突き放す。月は美しい。優しい光は窓辺のほこりさえ雪と見紛わせる。しかし夜明けには沈んでしまう。非情だ。きっと美には終わりが不可欠なのであろう。

春は出会いと別れの季節。出会いは常に偶然だ。しかし一度出会えば別れは必然だ。ああ、そうだったのか。出会いがこんなに愛おしく、誰かとの出会いに胸が痛むのは。出会いがこんなにも美しいのは。

 

 

高校生の男子がこんな韻文めいた文章を書くなんて…

この子はどんな子だろう。そんな興味が湧きました。日本人ならではの美意識に17歳にして目覚めるなんて、かなり早熟した精神の持ち主だなあ、と。それをこう表現できるというのは未熟さを感じつつも文才があると言えるし、ふっと三島由紀夫が浮かんだりしました。もしかして将来花開く才能に偶然すれ違ったことになってるのか?とあれこれ想像したりしたのです。

 

でも日本人なら、兼好法師が「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは」と評したように、

諸行無常を通奏低音として前奏や余韻を愛おしみ、見えないものや聞こえないものにも趣を感じる情緒を養っていってほしいところですよね。

そこが経験値の低さというか、若さゆえということになるのでしょうか。

 

が、ここで私の心に悪魔の声がささやきました。

 

これは果たして全くの自力で書いたものだろうか…と。

 

近頃話題になっている、例のヤツ…

例のヤツが絡んでいないだろうか…

 

先週たまたま見た「探偵ナイトスクープ」

ご覧になった方もいらっしゃるかと思いますが、

何度依頼を出してもボツにされるので、いっそAIに考えてもらうのはどうだろうという内容で送った視聴者がいて、見事採用となり、AIネタを検証していました。

採用されたのはAIのおかげと言えるのでしょうが、ヤツの言うことや提案すること、感心はしても感動の欠片もなかったし、最終的には関心のさざ波も引いていました。派遣された探偵がゆりあんというのも要因の一つかもしれませんが、見終わった局長松本人志が、「自分たちの立場がまだ奪われそうにないのが分かったという点で見てよかった」というようなコメントしてました。

私も同じような感想を持ちました。

 

少し前にサカナクション山口一郎さんのラジオを聴いていたところ、企画でAIに作詞してもらっていました。"ユーミン風"の歌を作って、とか"中島みゆき風"のとかもやってたと思いますが、出来上がったユーミン風の歌詞を見て、一郎先生は「うーん、微妙だけどそれっぽい」という感じで一定の評価をしていました。そして好奇心が募ったのか、"山口一郎風"の歌詞を書いてとリクエストすると、これもあっという間に出てきたのですが、さすがのご本人。「山口一郎はこんな言葉は使わない」と口調は穏やかながらきっぱりと否定する場面があって私は頼もしく感じたのです。というか、ちょっとホッとしました。


でも"村上春樹風の小説"書いてと言ったらヤツはちゃっちゃと書いちゃうんでしょうね。


絵画や、画像なんかでもAIがどんどんスゴイことしていってるんですよね。


そうなると著作権とかの知的財産はどう扱われるのでしょう。

 

以前、AIが歌を詠んだり、句作することについてのブログを書いたこともあります。

それで同じ題で人が作ったものとAIが作った数作品を比べた時に、私にはどちらがどちらか見分けがつきました。大抵の人は判別できたと思います。

なぜならAIは間違ってはならないもの、完璧を遂行するものとして膨大なデータから正解や模範解答を提示する人工知能です。学習の量やスピードも半端ないです。対して人は間違えないように細心の注意を払ったとしても間違えたり、とんでもない失敗をやらかしたりするものです。生身の人間はチンタラもしてます。つまり有機的なバグ抜きにはありえないわけで、それがまた人間らしさや味わい深さというのを生むのです。この先文芸の分野でも人が脅かされるようになるにしても、それを私が目の当たりにすることはないかな、と希望的観測を待ってますが、どうでしょう。人そのものが変われば、その価値観が変わればまた違っていくのでしょうが…

 

くだんの投稿が若い精神の内面の発露であり結晶だとするなら、これほど貴いものはありません。

 

ただ今や様々な場面でAIの存在を意識させられるという現状が広まりつつあり、その方向で社会全体が進んでいっている以上、私ごときが好いとか悪いとか判じるものではないです。とはいえ人が言葉の根っこをぞんざいにひっこ抜いて空疎に振り回し、それに無神経になっていくとしたら空恐ろしくもあります。

 

中学生や高校生の頃、本や教科書の中で古風な言葉や大人びた言葉にハッとすることがあるとそれらを使ってみたくなり、実際ああでもない、こうでもないと書き散らかしたりしました。若気の至りの典型で今読み返したら小っ恥ずかしいことこの上ないと思いますが、当時ピタッとハマった自己陶酔の経験がある者としては、ここにもひとりいたという発見の喜びをありがとうという気持ちでいたいのです。

 

AI、なんと素晴らしく厄介なものを私たちはまた手にしてしまったのでしょうね…