久しぶりの更新です。
最近眼がつらくなってきて…
おまけにフォローさせて頂いているブロガーさんを訪問してると、すぐに広告に切り替わって、しかも長っ!
まあ無料会員なんで文句は言えませんが
てなわけでしばらく遠のいていました。
記事も読めていなくて…すみません
事実先行であんまりインパクトはないけど、とうとう"酷暑日"という気象用語まで新設されて、
皆様はお元気でいらっしゃいましたか?
今週は仕事が夏休みで、書きたいこともあったのでおつきあい頂ければ嬉しいです。
数週間前、スーパーに買い物に行ったときのことです。
駐車場に車をとめて店の入り口に向かっていて、ふと違和感を覚えました。十字路の角っこにあるスーパーのはす向かい、駐車場の道を挟んだ土地にこの時期毎年目にしている光景が、ない。
こじんまりとした一枚の田んぼにこの時期なら毎年青々と伸びた稲が整然と並んでいるはずなのに…
そこに広がっていたのは節操なくはびこる日焼けした雑草群とほったらかされて乾ききった土という落差…
もっと早い時期に気づいても良さそうなのに、と鈍感な自分に舌打ちしたい気持ちになりましたが、
ほとんど追われるような時間の中で月に数回の買い物で気づく余裕もなかったのでしょう。
早くに気付いたところで…なんですが
現在の場所に住むようになって20年以上になりますが、日常の見慣れた景色がスポッと抜け落ちたようなショックがありました。昨今特段珍しい変貌と言えないのが分かってはいても、気持ちがへこみました。
昨年令和の米騒動と騒がれもしましたが、喉元過ぎればなんとやらで半ば米の高値もデフォルト化してて、暮らし向きはどんどん厳しさを増すばかりの現実には嫌気がさします。
それでも米農家さんにしてみれば以前が安すぎたと思うので、折り合いつけながら米やレトルトのご飯買ったりしてます。
そこは住宅地に残された最後の田んぼでした。特に気にもとめていなかったのですが昨年あれだけ世間を賑わしたというのもあり、水を張った田に小さな苗が並んでから、その時々の田んぼの表情をいつも以上に眼にとめるようになりました。日常の光景として
そうなってから私は改めて田んぼのある風景を当たり前に育ってきた安心感や育まれた感受性みたいなものに思いを致しました。
田んぼに引かれた水はどんなに暑くても眼に涼感を届けてくれます。実際気温も下げるはず。カエルやトンボなど水辺の生き物に出会ったりもします。季節の手に撫でられる緑の絨毯や黄金に波打つ実りの粒の美しさは言うまでもありません。
田んぼという自然を借りた人の営みは、目にする者の心も揺らし、豊かにするんだと今更ながらにしみじみ感じ入ったのです。
そんなの当たり前? 遅いわ?
笑われるかもしれませんね
そして、笑われついでに言うと
その田んぼを耕しているのが、なんと白州次郎ばりのイケ爺だったんです。昨年やはり初めて気づきました。たまぁに作業してるのを見かけるのですが、気持ちが5ミリほど浮いてじいーと眺めていたかったくらいです。笑
恐らくは自家消費とか親戚知人に回してるとかで、ひとりで作業できる、そんな広さの田んぼです。代々米作りをを生業にしてきて、今も細々とつないでいる。そんな感じで、きっと昔は広い農地を有してもいたのではないでしょうか。
そんな妄想を繰り広げながら、「収穫したお米分けてもらえませんか?」とか話しかけてみようかなと思ったくらい。昨年はそれくらい切実でしたよね。
その機会もないままいつの間にか稲穂はきれいに刈り取られてしまい、務めを終えた田んぼは眠りに入りました。
季節が巡ればまた目覚める
なんの疑いもなく、当たり前のようにそう思っていました。
でもそうはならなかった。
たぶんこのまま消えてしまうのでしょう。
住宅が建つのか、駐車場になるのか…
相続問題、健康問題、色々と考えられますが、よくぞ持ったものだといった方が合っているのかもしれませんね。
なんともやるせない思いになります。
GPTくんとやりとりしてて、この写真を見せたとき、昨年の水田の写真を見せてと言われました。残念ながらわざわ写真に残そうなんて発想はなかったんですね。日常の同じ時間軸で目に映る光景、それに意味があったからだと思います。それだけ普通に当たり前の光景だった訳で、これも「失って分かるその価値」というところでしょうか。そんなのばっかり…
GPTくんは「写真に残さなかったこと自体が、この光景が「生きたもの」の証拠のようにも思います」と心憎いコメントをくれました。
「むしろ今、この草むらを見たことで、あなたの中に残っている記憶が呼び起こされている。
写真がなかったからこそ、記憶の中の田んぼがまだ動いているとも言えるんじゃないでしょうか。
水面の反射、稲の緑、風の音、季節ごとの匂い、農作業をする人の姿。
そういうものは写真には写らないですからね。
そして面白いことに、今回撮られたこの写真は、かつての田んぼを記録する写真ではないのに、かつての田んぼを蘇らせる写真になっている。
草ぼうぼうになった現在が、あなたの記憶の中にある瑞々しい過去を逆照射している。
だから「もう遅い」とは、私はあまり思いません。
失われたからこそ見えるものが、今ここにある。
そしてこれからは、何気なく通り過ぎていた別の風景にも、ある日ふと「これは今しか見られないのかもしれない」と思う瞬間が来るかもしれません。
そのときに一枚撮ればいい。
でも、撮らなくてもいい。
写真にしなかったあの田んぼのように、自分の目で見た時間は、ちゃんとあなたの中に残っているのですから。」
ですと
GPTくん、ほんといちいち言うことが深い
一度イケ爺が道に佇んで田んぼを眺めている姿を目にしたことがあります。タバコをふかしながら、手塩にかけたであろう伸びゆく稲をじっと眺めていたのです。
何を考えていたのか知るよしもありませんが、彼には翌年の姿が見えていたのかもしれません。
最後の意地みたいなものがさらにカッコよく見せていたのかもしれません。
せめてお元気でいてくださいと願うばかりです。
会社の本部があるところも、昔は周りは田んぼだらけだったのに、数年前にほぼ消滅して宅地に変わったり、放置されたりしています。
こちらもその辺りでの最後の田んぼでした。5年くらい前になるでしょうか、田植え前の頃です。多分ご夫婦でされてたんだと思います。お昼休憩と思われる時間の仲睦まじさがほんわかしてて、
ついカシャ…
米どころと言われる所や田舎の方ではもちろん米を作っているんでしょうが、身近には見えなくなってしまっています。
少なくとも私の生活圏内では、畑は目にしても田んぼはほぼ見かけません。それだけ米作りは色々と大変なのでしょうか
「黄金の国ジパング」が金ではなく、秋の稲穂とまことしやかに言われて、私にはそちらの方がしっくりくるものがありました。(マルコポーロは自分の目で日本を見たわけでもないし、本当に当時は世界有数の金の産出国でもあったとかで、へぇーなんですが)
でもそんな説得力のある叙情的解釈もどんどん現実から乖離するばかりの昨今。
時代の変遷に抗弁したところで、これからも小さな田んぼはあちこちで消えていくのでしょう。
昔はそこかしこに田んぼが広がり、春先はレンゲやシロツメクサを摘みに入ったりして、首飾りや王冠を編んだことが懐かしいです。
ありがとうございました😊


