よく、不登校の子を見守りましょうっていいますよね。
見守るってどういうことでしょうか?
見守るって、何にもしないで、ただ、見ていることでしょうか?
それって、見放すことになるようにも思います。
「見守る」と「見放す」って、似ているようで、違います。
「見守る」も「見放す」も、対処している行動は、さほど変わりまはありません。
子どもに任せてみる。
自分で責任をとるということ。
そういうことで言えば、違いはありません。
どこまでは、黙っていて、どこまでは助けるか、そういったことも、気になるところです。
でも、助けたほうがいい場合もあるし、手を出さないほうがいい場合も、ある。
まどろっこしい言い方ですが、ケースバイケースです。
正しい答えや正解はないのです。
でも、なにが、子どもにとって違うのか?
「見放す」っていう行動には、こんな気持ちが隠れていそうです。
「もう、あんた、一体どうすんの。
お母さんは、こんなにも、こんなにも、こんなにも、しているのに。
もう、いい加減にしなさい。
もう、知らないからね。
勝手にしなさい!!!」
そんな声が聞こえてきそうです。
「見守る」っていう行動の裏には、そんな気持ちはないように思います。
自分の気持ちが整理がついているような感じがしますね。
「見放す」の奥には、ママ自身の怒りや悲しみが見え隠れします。
見放す気持ちの奥には、どんなことがありそうですか?
「
こんなにも、こんなにも、こんなにも、あなたのために、お母さん頑張っているのに、あなたのこと心配しているのに。。」
そんな気持ちがありますね。
そこには、子どもへの「愛」があるのは、間違いないです。
そして、もうひとつ、ママ自身の「こころの傷」が隠れているかもしれません。
子どもが学校に行かないっていうことで、ママのココロの傷がね、うずきだしているのかもしれません。
旦那さんとの関係だったり、お母さん、もしくは、義理のお母さんの関係だったり、また、ママ自身の小さい時に受けた心の傷だったり、その傷の要因は、人それぞれです。
私の場合は、いろいろありますが、主人との関係が大きかったかな。
主人は、感情を爆発させることが多かったので、長男が学校に行かないことで、家の中は嵐のようでした。
それが、とても、怖かったのね。
その、怖さを感じたくなくて、「長男の不登校」を解決したいと思った。
長男の問題なのに、もはや、自分の問題を解決するために、長男をコントールしよう、そう思っていたの。
そこに、気が付くことができた時、私の問題は、私が解決するのであって、長男の問題解決と一緒にしてはいけない。
そう、感じました。
そうして、「見守る」ことができはじめました。
子どもってね。
無意識に、ママ自身の心の傷を癒そうしているの。
ママが大好きだから。
行動は、真逆だったりするけどね。
ママの心の傷を、ぐいぐいってえぐってくるけどね。
あなたのココロの傷は、あなた自身で癒すことができるのできます。
言い換えると、「あなた」しか癒すことができないの。
あなたが気づいて、癒すのです。
とはいえ「見守る」って、難しいことですよね~。
私も、まだまだ、その途中です。
一緒に、子どもたちを、見守っていきましょうね。