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『駅の名前を全部言えるようなガキにだけは死んでもなりたくない』

そんなタイトルの本があるらしい。
 
著者は、三代目魚武濱田成夫。
たしか、女優の大塚寧々と結婚していたと記憶している。あるワードを検索していて、たまたまこの少々懐かしい名前にたどり着いた。
 
そしてその本のタイトルである。
このタイトルに引っかかった理由はといえば、私の弟が、まさに駅の名前を全部覚えて唱えるのが得意なガキだったのである。
 
別に三代目魚武氏に「なりたくない」と言われても、私の弟はそれが得意で楽しそうに毎日唱えていた子なので、好きなことは人それぞれでいいじゃないかということで済む話。だが、「なりたくない」に接頭辞として「死んでも」などという物騒なワードが付随しているところを見ると、彼がなぜそれほどまでに「駅の名前を全部言えるガキ」に敵愾心を持っているのか、逆に知りたくなってくる。
 
読まないけど。
 
ちなみに我が弟、オッサンになった今でも鉄オタである。
 

糖質制限ダイエットが流行している。私も歳をとり、食べた分だけ太ってくるようになった。そこで糖質を控え、ウォーキングなどで体重を減らそうと奮闘している。

大豆粉による低糖質ダイエットというのがちらほら目に入ってくるので、試しに買ってみた。



大豆パウダー。背面の栄養成分表を見てみると、思いの外カロリーが高いのが気になった。

小麦の栄養成分と比較してみると、小麦粉は炭水化物が100g中75.8g、大豆粉は26.2g。確かに圧倒的に低い。ではカロリーはタンパク質から来るのだろうか。小麦粉は100g中8.3g、大豆粉は38.5g。やはり大豆粉が5倍ほど多い。

ふと成分表を見ていて気になったのが、脂質である。大豆粉の脂質は100g中26.1gもあるのである。4分の1が脂質…ええ?4ぶんの1がアブラ?ちょっと多すぎるのではないか?

簡単に表計算ソフトに数値を入れ、糖質由来のカロリーと、脂質由来、タンパク質由来のそれを計算してみる。糖質、タンパク質の単位あたりカロリー4calに対し、脂質は9calとして計算する。

結果…恐ろしい数値が出た。

大豆粉の脂質のカロリーだけで、小麦粉糖質カロリーに匹敵するのである。

さらに言えば、大豆粉にも糖質がないわけではないのだから、トータルでは大豆粉のカロリーは小麦粉を凌駕するのである。

成分表にはちゃんと書いてある…エネルギー100gあたり472kcal。小麦粉では367kcal。

100kcalほども大豆粉の方が高カロリーなのだ。



これでは、低糖質といえども太らないはずはないであろう。ネットの評判では、どれだけ食べても太らない魔法の食材のように喧伝され、消費者もそう考えているようであるが、本当にそうなのだろうか?

考えてみれば大豆は油を取るためにも利用される食品である。油脂分を多く含んでいて当然なのだ。

ちなみに糖尿病の食事療法では、総カロリーを抑えることが必要になる。最近では、総カロリーのうち糖質由来のものを抑えるという考え方に移行しているようである。だからといって脂質を増やしていいということでもなかろう。

糖質ばかりが悪者にされがちな昨今、安易にメディアのアナウンスやネットの評判のみを鵜呑みにしてはいけない。情報を吟味した上でうまく利用することが重要なのだ。

基本的には賛同できる内容だったと思う。

が、それは、「フェミニズムの枠内に収めない」という限りにおいてである。

私も翼を折られた側の人間であり、望まない人生を歩む者である。そして女である。

が、翼を折られたのは、私が女だったからか。

問題は幾層にも重なっており、そのうちの一つは確かに私が男であったら回避できた問題といえよう。だが、他の層においては、性別も、能力も、全く関係なかった。そこで問題となっていたのは、上野氏も言及する「環境」だった。私一人の力では、どうあがいても突破できることではなかった。置かれた環境によって、私の翼は折られることとなった。

だから上野氏の辞には基本的には賛同できると思ったのだ。だが、それをフェミニズムの文脈に収めてしまうことで、ほかにもこの世に多数存在する「劣悪な環境」を見過ごしてしまう危険性を、この辞は孕んでいるのである(というより、おそらく上野氏はそれを狙っているのであろうが)。



以下引用:

 
19:今説明したような、広い意味での表象欲求をふくんでいるものを、のこらず魂と名づけるとすると、単一な実体、つまり創造されたモナドは、すべてこれ魂と呼んでいいが、(魂のはたらきとしての)知覚〈サンチマン〉は、たんなる表象以上のものであるから、ただ表象しかもたない単一な実体については、モナドとか、エンテレケイアとかいう一般的な名称で十分である。その表象がもっと判明で、記憶をともなうものだけをと呼ぶべきであると思う。
 
(モナドロジー・形而上学叙説 p.9[中公クラシックス・中央公論新社]

以下引用:


14:「一」すなわち単一な実体において、(瞬間ごとに)多をはらみ、他を表現している状態、その流れがいわゆる表象である。(略)

15:一つの表象から他の表象へ、変化や移行をひき起こす内的原理のはたらきを名づけて欲求という。(略)

16:われわれの意識する想念〈パンセ〉が、たとえどんなに微小でも、そこには対象の持つ多様性がつつみこまれている。そのことに気づいたとき、われわれは単一な実体であるはずの自分自身のなかに、多の存在を確認するのである。(略)


(モナドロジー・形而上学叙説 p.6,7[中公クラシックス・中央公論新社]