1-7. 仏教を学ぶ c
承前。 キリスト教の教えを象徴的に表現する言葉は「愛」「奉仕」「罪」「赦し」であり、ヒンドゥー教の場合は「業」(カルマ)「輪廻」(サンサーラ)「宇宙との合一」「行法としてのヨーガ」「不二一元論」(ヴェーダンタ哲学において)であるとすると、私にとっての仏教のキーワードは先述した「三法印」あるいは「四法印」に加え、「他力」「慈悲」です。 曹洞宗の開祖である道元禅師がおっしゃるように、何かを目的に坐禅するのではなく(例えばどうしても解脱しよう、ブッダになろうなどと遮二無二になって)、「ただ」(唯、只)坐禅する(坐禅が坐禅する)。 あるいは時宗の開祖である一遍上人がおっしゃるように、何かの祈願を込めて念仏を唱えるのではなく、ただ念仏が念仏を唱えるようにする(念念の称名は念仏が念仏を申すなり。しからば名号が名号を聞くなり)。つまり「無心」「無私」の状態で坐禅をしたり、念仏を唱える。 そして煩悩と、その基にある渇愛=私への執着を超え(あるいは消し)、小さなつまらない自力ではなく、大きな有難い他力と慈悲の力にただ身を委ね任せる。そうすれば究極の境地(悟り、解脱した境地、涅槃)に到達するかもしれない。 その境地には、あらゆる煩悩が焼き尽くされ、一切の苦からの完全なる解放、完全なる自由によってもたらされる究極の静謐さと安らぎがあるのではないか?そう想像し、その境地に至ることに激しく憧れるのです。 そして、その境地に至ろうと脱力してただ坐る、瞑想する、それだけでも既に幸せである。その幸せの先に、究極の幸せを味わえる機会があれば、生きることが完結する、死を怖れることがなくなるかもしれない。そう思い、愉しく修養を積んでいます(眉間や身体中に無駄な力を入れて坐る、あるいは何らかの身体的苦行は効果がないとしてゴーダマ・ブッダも否定しています)。