4歳児が目の前に置かれたマシュマロを食べずに我慢できるか?という米国の心理学者ウォルター・ミシェルによる実験が最近、WIREDの記事で採りあげられ、話題になっています。
「15分間待てばもう1つマシュマロをあげるよ」
「待てなければベルを押してから食べてね」
と言われて部屋は子どもだけが残されます。
その再現VTRがこれ。みんなあの手この手でマシュマロを食べたいという欲求を抑えようとします。目をつぶったり他のことに注意を向けたり、においを嗅いだり。少しだけならばれないだろうとちぎって食べちゃってる悪い子もいます。口に入れた後、慌てて出してる子もいますね。ベルを鳴らさずに食べちゃった子も。
結果、子どもが我慢できたのは平均2分間。
そして全体の25%の子どもが15分間「マシュマロを我慢する」ことに成功したそうです。
これだけでは終わりません。これらの我慢強い子どもたちはその12年後に行われた追跡調査では大学入学適性試験で高い成績を残し、「マシュマロ」からなんと40年後に行われた脳神経の実験でも「我慢強かった」子と「我慢できなかった」子で脳神経の活動度合いに差が見られたというのです。結果がどうこうというよりも、この実験を試みた発想とスケールの大きさに驚かされますね。
「我慢強さ」と「セルフコントロール」。
非常に大事な能力だと思いますが、「我慢強さ」に限ってはそうも言いきれません。適度な「我慢強さ」が大事です。あまり我慢強いと盲腸を我慢しすぎて治療が遅れ、中学の林間学校に参加できなくなったり、歯の痛みを我慢しすぎて顔が腫れたり頭が痛くなって泣きをみることになります。
「走る時に語ることについて僕が考えること」だか、「走りながら考えることについて僕が語ること」だか、「走ることを考える時に僕が語ること」だか、「走ることを考えただけで息があがってくること」だか、正確な名前を忘れてしまいましたが、村上春樹さんが長年マラソンに挑戦し続けていることについて書かれた作品をふとまた読みたくなりました。
と思ったら、3年も前にブログ にも書いていました(タイトルも微妙に違った…)
確かこんなようなことが書いてあったのではないかと思います。
「走ること」と「小説を書く」ことは似ていて、
・日々の地道なトレーニングの積み重ねがあって初めて完成する、実を結ぶ
・したがって、努力もなしに急に素晴らしい結果を出すことは不可能
・さぼっているとすぐに衰える、誰にでもピークがあり、「老い」と戦わなければならない
・結局は孤独である。周りの協力や応援頼みではいけない、自分との勝負なのだ
最近、流行りの皇居ランを月2回くらいやっています。
永田町駅からすぐの三宅坂交差点からスタートし、なだらかな下り坂と平坦な道のりが続き、3km地点の手前あたりでしょうか。竹橋を渡った所から、それまでとうってかわって、急な上り坂になります。僕はもちろんのこと、皇居ランナー達の顔つきも急に険しくなり、明らかなペースダウンを避けられません。
この難所でいかに力を発揮できるかがランナーの真価が問われているのだろうな、と毎回この地点で体力の大半を消耗しながら思うわけです。結構走りこんでいると、ここで面白いように周りの人たちを抜き去ることができます。実際はペースをあげているわけではないのですが、「上り坂なのに逆に加速している感覚」といえば雰囲気が伝わるでしょうか。
逆に、さぼっていて久しぶりに走ると最悪です。「この上り坂が延々に続くのではないか」「皇居1周で止めておけばよかった」「何で走っているんだっけ」「別に誰も見てないし、ここで止まろうか」などと、どこからともなく悪い虫が耳元でささやき、一層、走りは精彩を欠いたものになっていくわけです。
マラソン以外でも置き換えられますね。そう、仕事です。(いつも同じような文脈ですみません)
下り坂では放っておいても全員が加速します。軽快に走ります。追い風が吹いているから自分の実力以上のものが発揮されるわけです。でも周りも加速しているから差がつきません。さらに残念なことに、すぐそこにとんでもない上り坂が迫っていることにほとんどの人が気づかないのです。
その結果、上り坂ではほとんどの人がつまずきます。「今まで上手くいっていたのになぜ?」「周りもつらそうだしまあいいか」「ところで何で走ってるんだっけ」「下り坂の時代は幸せだったな・・・」 今苦しんでいるのが将来を見越した日頃の鍛錬・投資を怠っていたからだということに気付いた時にはすでに遅いのです。下り坂でも慢心せずにコツコツ積み重ねてきた人は足腰がしっかりしているから、少しくらいの上り坂には屈しません。ここで差がつきます。その人の真価が問われます。
環境(コースや天候)の波に翻弄されない強い足腰をつくることが「安定感」「実力」への近道なのだろう、と最近つくづく思います。先日のTOEICは悪夢だったので11月に挑戦するマラソンでこそ真価が発揮できるようにトレーニングがんばります。
と思ったら、3年も前にブログ にも書いていました(タイトルも微妙に違った…)
確かこんなようなことが書いてあったのではないかと思います。
「走ること」と「小説を書く」ことは似ていて、
・日々の地道なトレーニングの積み重ねがあって初めて完成する、実を結ぶ
・したがって、努力もなしに急に素晴らしい結果を出すことは不可能
・さぼっているとすぐに衰える、誰にでもピークがあり、「老い」と戦わなければならない
・結局は孤独である。周りの協力や応援頼みではいけない、自分との勝負なのだ
最近、流行りの皇居ランを月2回くらいやっています。
永田町駅からすぐの三宅坂交差点からスタートし、なだらかな下り坂と平坦な道のりが続き、3km地点の手前あたりでしょうか。竹橋を渡った所から、それまでとうってかわって、急な上り坂になります。僕はもちろんのこと、皇居ランナー達の顔つきも急に険しくなり、明らかなペースダウンを避けられません。
この難所でいかに力を発揮できるかがランナーの真価が問われているのだろうな、と毎回この地点で体力の大半を消耗しながら思うわけです。結構走りこんでいると、ここで面白いように周りの人たちを抜き去ることができます。実際はペースをあげているわけではないのですが、「上り坂なのに逆に加速している感覚」といえば雰囲気が伝わるでしょうか。
逆に、さぼっていて久しぶりに走ると最悪です。「この上り坂が延々に続くのではないか」「皇居1周で止めておけばよかった」「何で走っているんだっけ」「別に誰も見てないし、ここで止まろうか」などと、どこからともなく悪い虫が耳元でささやき、一層、走りは精彩を欠いたものになっていくわけです。
マラソン以外でも置き換えられますね。そう、仕事です。(いつも同じような文脈ですみません)
下り坂では放っておいても全員が加速します。軽快に走ります。追い風が吹いているから自分の実力以上のものが発揮されるわけです。でも周りも加速しているから差がつきません。さらに残念なことに、すぐそこにとんでもない上り坂が迫っていることにほとんどの人が気づかないのです。
その結果、上り坂ではほとんどの人がつまずきます。「今まで上手くいっていたのになぜ?」「周りもつらそうだしまあいいか」「ところで何で走ってるんだっけ」「下り坂の時代は幸せだったな・・・」 今苦しんでいるのが将来を見越した日頃の鍛錬・投資を怠っていたからだということに気付いた時にはすでに遅いのです。下り坂でも慢心せずにコツコツ積み重ねてきた人は足腰がしっかりしているから、少しくらいの上り坂には屈しません。ここで差がつきます。その人の真価が問われます。
環境(コースや天候)の波に翻弄されない強い足腰をつくることが「安定感」「実力」への近道なのだろう、と最近つくづく思います。先日のTOEICは悪夢だったので11月に挑戦するマラソンでこそ真価が発揮できるようにトレーニングがんばります。
仕事を受けた時に、「やらされ感満載」で嫌々取り組むのか、それとも「任されて当然、好機到来!」と意欲的に取り組むのかで結果が大きく違ってくる、というコラムを読んで思うところがあったので、仕事を依頼する側の立場で思うところを書いてみたいと思います。
さて、ある仕事があって誰かにお願いしたい。
そんな仕事に限って、成功するのが難しかったり、面倒だったり、結構な時間がかかったり、関係者やお客さんと交渉や調整をしなければいけなかったり、地味で単純作業が多かったりで、こんなものお願いしたら嫌がられるんじゃないか、と気が引けたり、申し訳ない気持ちになったりする。
でもよーく考えてみよう。
周りを見渡して、そんな派手で楽しくてやる前からワクワクして、成功するのが目に見えているような、一見魅力的な仕事。そんなものあるワケがない。実際、1割、いや5%にも満たないのではないだろうか。第一、成功するのが目に見えている仕事なんて誰がやっても同じなのだから。だから気にせずどんどん依頼すべき。ぎりぎりになればなるほど、ますます頼みづらくなり、結局自分で片付けなければならなくなったり、いわゆる「急発注」という依頼者側ができることなら避けたい乱暴な行為に出ざるをえない。つまり、つまらない遠慮が自分の首を絞めることになる。
仕事を依頼する際は作法のようなものがある。
仕事を受ける側が全力でその仕事に取り組むにはどうすれば良いか?
そこが仕事を依頼する側の腕の見せ所だったりする。
もちろん全てを丁寧に教える必要はないが、受ける側に「なぜこの仕事が自分に任されているのか」という発想力が乏しい場合には、少なくともそれが何なのかを本人に勘付かせる、想像、理解、消化、納得させる工夫が欲しい。
・なぜこの仕事を任せるのか
・何に期待しているのか
・これが成功すると何が生まれるのか
・何がどうなればガッツポーズをして良いのか
といった事が依頼者と受け手で握れているのか、理解がなされているのかが重要。
あとは言葉も大事。「ここを期待しているよ」「これは君になら成功できると思うんだ」「良くがんばってるね」と声をかけてもらって嫌な気持ちになる変わり者はおそらく滅多にいないだろう。
仕事を受けた人間が、ここが曖昧だったり納得感のないまま走り始めても、たぶんずっと徐行運転。よそ見ばかりしている。仮にその仕事自体はそつなく事が運んだとしても次につながらない、成長もない。
「そんなに手とり足とりの必要ないだろう、私に限ってはそんなことはない、周りは黙っていてもついてくるし、「阿吽の呼吸」てやつで言葉なんかいらないのさ」などと思わずに、騙されたと思ってやってみると案外うまくいく。最初は事細かに入念に教えなくてはいけなかったのが、いつの間にか自走できるようになってる。それも結構なスピードで。やがて、仕事を依頼した相手もその作法を身につけ、「上品」な仕事の仕方ができるようになるのだ。
さて、ある仕事があって誰かにお願いしたい。
そんな仕事に限って、成功するのが難しかったり、面倒だったり、結構な時間がかかったり、関係者やお客さんと交渉や調整をしなければいけなかったり、地味で単純作業が多かったりで、こんなものお願いしたら嫌がられるんじゃないか、と気が引けたり、申し訳ない気持ちになったりする。
でもよーく考えてみよう。
周りを見渡して、そんな派手で楽しくてやる前からワクワクして、成功するのが目に見えているような、一見魅力的な仕事。そんなものあるワケがない。実際、1割、いや5%にも満たないのではないだろうか。第一、成功するのが目に見えている仕事なんて誰がやっても同じなのだから。だから気にせずどんどん依頼すべき。ぎりぎりになればなるほど、ますます頼みづらくなり、結局自分で片付けなければならなくなったり、いわゆる「急発注」という依頼者側ができることなら避けたい乱暴な行為に出ざるをえない。つまり、つまらない遠慮が自分の首を絞めることになる。
仕事を依頼する際は作法のようなものがある。
仕事を受ける側が全力でその仕事に取り組むにはどうすれば良いか?
そこが仕事を依頼する側の腕の見せ所だったりする。
もちろん全てを丁寧に教える必要はないが、受ける側に「なぜこの仕事が自分に任されているのか」という発想力が乏しい場合には、少なくともそれが何なのかを本人に勘付かせる、想像、理解、消化、納得させる工夫が欲しい。
・なぜこの仕事を任せるのか
・何に期待しているのか
・これが成功すると何が生まれるのか
・何がどうなればガッツポーズをして良いのか
といった事が依頼者と受け手で握れているのか、理解がなされているのかが重要。
あとは言葉も大事。「ここを期待しているよ」「これは君になら成功できると思うんだ」「良くがんばってるね」と声をかけてもらって嫌な気持ちになる変わり者はおそらく滅多にいないだろう。
仕事を受けた人間が、ここが曖昧だったり納得感のないまま走り始めても、たぶんずっと徐行運転。よそ見ばかりしている。仮にその仕事自体はそつなく事が運んだとしても次につながらない、成長もない。
「そんなに手とり足とりの必要ないだろう、私に限ってはそんなことはない、周りは黙っていてもついてくるし、「阿吽の呼吸」てやつで言葉なんかいらないのさ」などと思わずに、騙されたと思ってやってみると案外うまくいく。最初は事細かに入念に教えなくてはいけなかったのが、いつの間にか自走できるようになってる。それも結構なスピードで。やがて、仕事を依頼した相手もその作法を身につけ、「上品」な仕事の仕方ができるようになるのだ。