「走る時に語ることについて僕が考えること」だか、「走りながら考えることについて僕が語ること」だか、「走ることを考える時に僕が語ること」だか、「走ることを考えただけで息があがってくること」だか、正確な名前を忘れてしまいましたが、村上春樹さんが長年マラソンに挑戦し続けていることについて書かれた作品をふとまた読みたくなりました。
と思ったら、3年も前にブログ
にも書いていました(タイトルも微妙に違った…)
確かこんなようなことが書いてあったのではないかと思います。
「走ること」と「小説を書く」ことは似ていて、
・日々の地道なトレーニングの積み重ねがあって初めて完成する、実を結ぶ
・したがって、努力もなしに急に素晴らしい結果を出すことは不可能
・さぼっているとすぐに衰える、誰にでもピークがあり、「老い」と戦わなければならない
・結局は孤独である。周りの協力や応援頼みではいけない、自分との勝負なのだ
最近、流行りの皇居ランを月2回くらいやっています。
永田町駅からすぐの三宅坂交差点からスタートし、なだらかな下り坂と平坦な道のりが続き、3km地点の手前あたりでしょうか。竹橋を渡った所から、それまでとうってかわって、急な上り坂になります。僕はもちろんのこと、皇居ランナー達の顔つきも急に険しくなり、明らかなペースダウンを避けられません。
この難所でいかに力を発揮できるかがランナーの真価が問われているのだろうな、と毎回この地点で体力の大半を消耗しながら思うわけです。結構走りこんでいると、ここで面白いように周りの人たちを抜き去ることができます。実際はペースをあげているわけではないのですが、「上り坂なのに逆に加速している感覚」といえば雰囲気が伝わるでしょうか。
逆に、さぼっていて久しぶりに走ると最悪です。「この上り坂が延々に続くのではないか」「皇居1周で止めておけばよかった」「何で走っているんだっけ」「別に誰も見てないし、ここで止まろうか」などと、どこからともなく悪い虫が耳元でささやき、一層、走りは精彩を欠いたものになっていくわけです。
マラソン以外でも置き換えられますね。そう、仕事です。(いつも同じような文脈ですみません)
下り坂では放っておいても全員が加速します。軽快に走ります。追い風が吹いているから自分の実力以上のものが発揮されるわけです。でも周りも加速しているから差がつきません。さらに残念なことに、すぐそこにとんでもない上り坂が迫っていることにほとんどの人が気づかないのです。
その結果、上り坂ではほとんどの人がつまずきます。「今まで上手くいっていたのになぜ?」「周りもつらそうだしまあいいか」「ところで何で走ってるんだっけ」「下り坂の時代は幸せだったな・・・」 今苦しんでいるのが将来を見越した日頃の鍛錬・投資を怠っていたからだということに気付いた時にはすでに遅いのです。下り坂でも慢心せずにコツコツ積み重ねてきた人は足腰がしっかりしているから、少しくらいの上り坂には屈しません。ここで差がつきます。その人の真価が問われます。
環境(コースや天候)の波に翻弄されない強い足腰をつくることが「安定感」「実力」への近道なのだろう、と最近つくづく思います。先日のTOEICは悪夢だったので11月に挑戦するマラソンでこそ真価が発揮できるようにトレーニングがんばります。