【いよいよ明日発売!】

『対話する医療』第3章の内容を少しだけ紹介いたします。

第3章は「『ゆるいつながり』が健康をもたらす」と題し、健康格差の問題、家庭医の地域の見方、ソーシャルキャピタルと健康、まち歩き、東京の「下町」の健康、谷根千でのCBPR研究、「銭湯」とコミュニティの健康、健康生成論(アントノフスキーのSOC概念)、健康な地域とゆるいつながり、などについて書いています。

健康やウェルビーイングの社会的側面、人がコミュニティで「ゆるく」つながることが健康につながることなどを、下町、銭湯、路地、まち歩きなどをキーワードに解説しています。

地域のエンパワメントでは欠かせないパウロ・フレイレの物語や、地域診断と地域ケアの事例として、友人の長嶺由衣子医師も紹介させていただきました!

「『対話』と関係ない話になってない?」と思われた方、当たらずとも遠からず!(笑)まことにすみません。楽しく読めればそれでいいんです!なんて、無責任なことは言えませんが、地域で人々がつながるときにも「対話」が重要というキーワードでストーリーを紡いでおります。

いよいよ明日、2月9日発売となります。
Amazonでも買えますが、ぜひ書店の店頭にも並びますのでお求めください!

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『対話する医療:人間全体を診て癒すために』(さくら舎より2/9発売)の第2章の内容を少し紹介いたします。

第2章「対話がつくる新しい医療のカタチ」は、患者と医師のコミュニケーション、ナラティブの力、「白衣」の意味、非言語コミュニケーション、患者と医師の「対話」はなぜ必要か、オープンダイアローグ、医療分野の対話カフェ(みんくるカフェ、他)、フランコ・バザーリアの物語、ミハイル・バフチンのポリフォニー(多声性)、といった内容になっています。

ナラティブが医療ケアにもたらしたインパクトは非常に大きなものでした。でも「物語」がなぜ医療にとって大事なのか、今ひとつ理解できない方も多いかもしれません。
単に「効果があるから」という効果論を超えたナラティブの意義、そしてそれが、お互いの「まなざし」や「声」を交換しあう「対話(ダイアローグ)」にどうつながるのか、そんなことを書いています。

2010年から続けている対話カフェ(みんくるカフェ)のことや、哲学カフェ(おんころカフェ)、のぶさん(鈴木 信行)のペイシェントサロンなども少しだけ紹介しています。

そして、オープンダイアローグや未来語りのダイアローグといった新しい潮流についても、2017年春のケロプダス病院訪問記とともに紹介しています。
最後は、ミハイル・バフチンのポリフォニー(多声性)概念についての解説です。

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いよいよ2/9に発売が迫った拙著「対話する医療:人間全体を診て癒すために」より第1章の内容を少しだけ紹介いたします。

第1章「『人間全体』を診る医師」は、家庭医とはどんな仕事をしているかという内容です。

この本では総合診療医ではなく、家庭医(family physician)という用語をあえて使っています。

理由として、家庭医は、family(家族)の医師であるという言葉の通り、家族というシステムを診る存在だからです。
また、家庭=家で患者を診療したり、看取ったりするという存在でもあるからです。

第3節「『家族』というシステムを診る」では、家庭医による家族志向性アプローチ(family-oriented approach)の実際を、
第6節「家庭医による『看取り』の作法」では、正岡子規の晩年を例に、在宅緩和ケア・看取りのことを書いています。

その他にも、家庭医のさまざまな技法:患者中心の医療の方法(patient-centered clinical method)や、
複雑性・不確実性のある患者の見かたと生物-心理-社会アプローチ(bio-psycho-social approach)、
地域における多職種連携アプローチなどを、事例をまじえながら、
非専門職の方にも分かりやすく説明しています。

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「対話する医療:人間全体を診て癒すために」出版記念イベント


「対話」を大事にしながら「人間全体」を診る医療とは?


拙著『対話する医療:人間全体を診て癒すために』(さくら舎、2月6日発売予定)の発刊を記念して、出版記念講演会を開催します。


「対話する医療:人間全体を診て癒すために」

第1章 「人間全体」を診る医師

第2章 対話がつくる新しい医療のカタチ

第3章 「ゆるいつながり」が健康をもたらす

第4章 患者にとっての良い医師とは


Amazonから予約受付中:http://amzn.asia/15GL4Cf


「対話」という言葉に興味を持った方、カフェで珈琲を飲みながら話をするのが好きな方、未来の医療を担う医療系学生、現役の医療従事者の方、皆さまのご参加お待ちしています。


【日時】 2月6日(火)19:00 開演(18:30開場)


【場所】 FARO Coffee & Catering

 (地図) https://goo.gl/maps/83uc9kn2fmv/ 

 (住所) 東京都文京区本郷2-39-7

 *地下鉄丸ノ内線・都営大江戸線「本郷三丁目」駅から徒歩数分


【参加費】 3500円(飲みもの、お菓子付き)

 参加者全員に、孫のサイン付きの本をプレゼント


【募集人数】 30名


【申し込み先】 k-iwakoshi@sakurasha.com(さくら舎・岩越)まで、氏名・連絡先などをご連絡ください


【主催】さくら舎(担当・岩越)


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著者孫大輔プロフィール:

家庭医、東京大学大学院医学系研究科医学教育国際研究センター講師。医学博士、看護学博士、医療者教育学修士。

1976年、佐賀県に生まれる。2000年、東京大学医学部を卒業。腎臓内科、家庭医療を専門として勤務を続けた後、2012年より現職。大学では主に医療コミュニケーション教育に従事。現在、教育・研究とともに、非常勤で家庭医としての診療を続けている。研究領域は医学教育学、ヘルスコミュニケーション、など。2010年より市民と医療者の対話の場「みんくるカフェ」を主宰。一般社団法人みんくるプロデュース代表理事を務め、谷根千まちばの健康プロジェクト(まちけん)代表。

著書には『人材開発研究大全』(分担執筆、東京大学出版会)、『「ラーニングフルエイジング」とは何か––超高齢社会における学びの可能性』(分担執筆、ミネルヴァ書房)、また、毎日新聞で「くらしの明日:私の社会保障論」(2016年〜2017年)を連載した。

2月6日に、さくら舎より初めての単著を刊行します。

「対話する医療:人間全体を診て癒すために」

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家庭医療、医療コミュニケーション、ダイアローグ、対話カフェ、コミュニティ活動、共感の医学教育などについて紹介する内容です。

一般の方向けに書いたので、専門家の方には物足りないかもしれませんが、オープンダイアローグや、バフチンの哲学など最近のトピックも盛り込んでます。

私のヒーローであるクラインマン、バザーリア、フレイレなんかは詳しく取り上げています。

「対話」というキーワードで、ここまで幅広く取り上げた内容は滅多にないのではないかと自負してます。

良かったらお手に取ってみて下さい。

下記Amazonより予約できます:

昨日、ある医療人類学者の方から聞いた「Health Social Movement」という概念が興味深かったので紹介します。

 

まだ定着している日本語訳もないような新しい概念です。

 

Social Movementとは「社会運動」、つまり当事者たちの社会的状況や権利を改善するために当事者が団結して起こす政治的活動のことです。

 

Healthとつくと、健康や医療関連の分野でのこうした運動のことを指します。

 

例として1980年代から欧米で、HIV患者たちが起こした運動が挙げられます。

従来、医療・医学の「知」は、専門家が主導して構築し、患者にそれを伝え、患者がその知を利用するという構造になっていました。

しかし、HIV患者たちは、薬の使い方や副作用について詳細を知っているのは患者であり、そうした患者の「知」がもっと生かされるべきであること、またHIVをめぐる医療システムをもっと改善するために当事者であるHIV患者が積極的役割を果たすことを主張しました。

その結果、HIV治療薬の治験(臨床試験)のルールなどを、患者たちが積極的に関与して変えていくことができたのです。

 

こうした動きは、アルツハイマー病、乳がん、筋ジストロフィーなどの疾患領域でも広がっていきました。

 

医療社会学では「Sociology of Lay Belief(非専門家の知の社会学)」という分野があり、患者や当事者の知が医療に対してどのように貢献するのか、という分析がなされています。

Health Social Movementは、それとも関連するテーマだと思います。

 

これは、従来、圧倒的に専門家のものであるとされていた医療や健康分野の「知」が、非専門家である患者の「知」によって書き換えられる、あるいは再構築されるという画期的な動きであると思います。

 

さて、日本の状況ではどうなのでしょうか。

 

まだ未読なのですが、東北大学の社会学者・本郷正武氏の「HIV/AIDSをめぐる集合行為の社会学」(ミネルヴァ書房)に、薬害HIV訴訟運動やエイズ予防啓発活動に参加する「良心的支持者」たちの動きが詳細に書かれています。

 

また読んでみたら、感想を共有したいと思います。

 

先日、ある大学院生の研究アイデア発表会を聞く機会がありました。

 

研究テーマの詳細は書けないのですが、オカルティズムのような一種の「非科学」をどこまで科学的視点から分析し、位置付けることができるのかといったような内容で、大変興味をそそられました。

 

しかしながら、疑似科学については科学的視点から真偽を判断することができますが、「非科学」については科学は「関与しない」、というのが正確な立場だろうと思います。

 

科学哲学者のカール・ポパーが「科学」の条件として「反証可能性」(falsifiability)を提唱したのは有名ですが、彼は「どのような手段によっても間違っていることを示す方法がない仮説は科学ではない」と説明しています。

 

例えば、ある人が「私が言っていることはすべて正しい」と宣言している人がいるとします。そうすると、この人の言説に対して科学的矛盾点などを示したとしても、その人はまた「それでも私の言っていることは正しい」と唱えることができます。つまり反証できないのです。こうしたものをポパーは「科学ではない」と判断しました。

 

しかしこの「反証可能性」も科学と疑似科学を分けるものとして提案されたもので、「非科学」については科学はどうしようもありません。

例えば、霊魂の存在、オカルティズムといったものが挙げられるでしょう。

 

(ライプツィヒの酒場にある森鴎外とメフィストフェレスの壁画)

 

 

では、こうした現象についてまったく研究ができないかといえば、そうではありません。

 

例えば、人類学的研究などの人文科学あるいは社会科学的な視点による研究が挙げられます。

文化人類学の研究、あるいは医療人類学の研究では、いわゆる未開社会における病いの研究がなされ、病因モデルではなく「呪い」モデルによる病いや治療の体系があることが記述されています。

あるアフリカの村社会では、すべての病いは、人から「呪われる」ことによって起きるので、治療は一種の祈祷師(シャーマン)の元へ行き、呪いを解いてもらうことによって成り立つ、ということが分析されています。

 

しかし科学とそうでないものを一緒に扱うときは、基本的にはパラダイムの違いというものを意識せざるを得ません。

自然科学は実証主義(positivism)の視点に立ち、人類学などの人文科学は構成主義(constructivism)の視点に立っています。

前者は「真実や事実は一つである」という立場であり、後者は「真実や事実は一つではなく多面的である」という立場なので、研究をするアプローチ(方法論=メソドロジー)がまったく異なってきます。

もちろんこのスペクトラムには、この両極端のみならず中間的な立場も存在します(例えばポスト実証主義や批判理論など)。

またプラグマティズムなど、両者を融合させていくようなアプローチもあります(混合研究法などはこの立場です)。

 

従って、いわゆる「科学的でない」ものを扱う研究においては、自分がどのようなパラダイムに立脚して研究しようとしているのかを明らかにすることは非常に重要なのです。

 

医学研究においても最近、質的研究や混合研究法が増えてきました。質的研究は一般的に、構成主義的パラダイムに立脚しています。

私自身の専門の一つである医学教育研究においても、エスノグラフィー(人類学の研究手法)や現象学的方法を用いた論文が増えてきて、大変面白いと感じています。

 

そうした時代だからこそ、この「パラダイム」問題は決して軽視されてはならないでしょう。

小学5年生の娘が夏休みの自由研究で「銭湯新聞」を書きました。

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練馬区の銭湯、3箇所を巡り、実際に入浴したり、番台のおじさんやおばさんにインタビューして、銭湯の歴史や現状、良いところなどをまとめたものです。

訪問した銭湯は豊宏湯、美寿々湯、富士の湯。
いずれも宮造り(お寺のような構え)の銭湯で、50年から70年の歴史を誇ります。

私も娘と一緒に銭湯巡りをして、銭湯ごとにちょっとずつ異なる特徴を楽しみました。
壁絵は富士山だけでなく、南アルプスやナイアガラの滝など、いろんなバージョンがあるんです。
しかし江戸の熱風呂と言いますが、お湯の温度の熱いこと!44〜45度が標準設定になってました。

子どもの注目点で面白かったのは「銭湯と言えばなぜ牛乳なのか」という視点。
子どもなりにいろんなことに興味を持って調べていることに感心しました。

全盛期には都内に2400件以上あった銭湯は今や600件ほどに減っているとか。
日本人の文化に根付いている銭湯を子供たちの時代にも何とか継承していけるといいですね。

谷中にある全生庵の坐禅会に先日初めて行ってきました。

 

このお寺は幕末の志士の一人、山岡鉄舟が開祖したお寺であります。

彼は本当に「ラストサムライ」と言われた人で、無論、勝海舟と西郷隆盛の江戸無血開城会談を取り持ったことで歴史に名前を残していますが、剣の達人であるとともに禅と、そして書の達人でもあったと言われています。

 

このお寺では毎週末、坐禅会が開かれており、また平日朝の坐禅会にも参加できます。

 

 

このお寺の坐禅会には、中曽根康弘元総理も通っていたとのことで、中曽根さんの揮毫した額が掲げられていました。

以前、ここの住職にお話を伺ったことがあるのですが、中曽根さんは総理就任前からここの坐禅に通われており、就任後も変わらず定期的に来ていたそうです。

 

 

私自身は、坐禅は初めての体験でした。

 

まずは副住職からオリエンテーションを受け、座り方、警策の受け方などの作法を教わります。20人ほどの初参加者がいました。

警策とは、例の「パシっ!」と長い板のようなもので肩を叩かれるやつです。

あれは、お坊さんが勝手に「おぬし、たるんどるな」とか言って叩いてくるイメージがありますが(笑)、このお寺の作法では、こちらからお願いするシステムになっています。自分がそろそろ叩いてほしいな、と思えば合掌し、頭を下げて肩を出すと、叩いてくれるようになっています。

邪念が入ったり、眠くなったりしたときに叩いてもらえばよくて、受けなくてもいいし、何回受けてもいいそうです。

 

オリエンテーションの次は、一般の人に混じって、坐禅会が始まります。50〜

60人もの人が所狭しと座っていて、休日の夜にこんなに坐禅をする人がいるんだなと驚きました。

といっても、まだ坐禅は始まりません。

まずは般若心経などを読経します。その次に、住職のありがたい説法を拝聴します。

1時間ほどたって、やっと坐禅の時間です。

 

25分の坐禅を小休憩をはさんで2回やったのですが、始まってみると、時間は意外とあっという間でした。

坐禅の場合、目を閉じずに半眼で1mほど前の床を見つめ、姿勢を正して、呼吸の数を数えます。

ただただ、数を数えながら自分の呼吸に集中し、他のことを考えないように、頭を真っ白にします。

 

といっても、最初のうちはいろいろと考えてしまい、「頭を真っ白にする」ということがなかなかできませんでした。

 

しかし、やっているうちに、最初はつらいと思っていた姿勢も、だんだんと心地よい緊張感に変わり、完全に楽な姿勢で時間を過ごすよりも濃密で清廉な時間を過ごしているような気持ちになりました。

 

例の警策も3回ほど受けてみました。

「めっちゃ痛いんじゃないか」と少し怖かったのですが、受けてみると程よい痛さで、結構病み付きになりそうでした(笑)。

 

計50分の坐禅の最後のほうには、体の硬い私は足が痺れてしまい、痺れのために集中できなくなってきてどうにも困りましたが、終わってみると、程よい緊張感の余韻が残り、すごくスッキリしたような気持ちになっていました。

 

またぜひ坐禅の会に行ってみたいと思います。

 

エドワード・サイードの「オリエンタリズム」を読みました。

 

ポストコロニアル理論を確立した名著と言われています。

 

Wikipediaによると、ポストコロニアル理論とは以下のようなものです。

 

「ヨーロッパで書かれた小説に、アジア・アフリカなど植民地の国々がどのように描かれているか、あるいは旧植民地の国々の文学ではどのように旧宗主国が描かれているか、旧植民地の文化がいかに抑圧されてきたかといった視点で研究する」

 

すなわち、抑圧者と非抑圧者の関係を、帝国主義時代から現在に至るまでの、西洋とオリエント(東洋=非西洋)の関係を軸に論じたものが「オリエンタリズム」です。

 

ここでオリエント(非抑圧者)は「サバルタン」という立場に押し込められています。

 

「サバルタン」とは、「周縁化された集団や下層階級といった、エージェンシー(行為主体)たる社会的地位を与えられていない人々」を指す言葉ですが、イタリアのマルクス主義思想家であったアントニオ・グラムシが用い、ガヤトリ・C・スピヴァクなどが発展させました。

 

スピヴァクは「サバルタンは語ることができるか」という本を書いています。

 

ここでは、西洋の思想家たちは他の様々な形態の知識のありかたを神話や伝説として捉え直し、周縁化してきたのだ、と論じています。サバルタンが自分たちの声を聞いてもらうためには、まず西洋の思想、論理、言語を受け入れなければならない。自分たちのオリジナルな思想や言語をもって語ることができない、ということです。

 

 

 

それでは、サバルタンはどうしたら、この困難な状態を脱することができるのでしょうか。

ここでの抑圧ー非抑圧の関係は、サバルタン自らの力では克服することができないのでしょうか。

 

 

ここでの一つの戦術として、カルチュラル・スタディーズの思想家ミシェル・ド・セルトーの「ペルーク(perruque)」を紹介したいと思います。

 

セルトーは、周縁化された人々の日常生活における抵抗戦術として「ペルーク」を挙げました。

これはフランス語で「かつら」を指し、転じて策略や機略を意味する言葉ですが、日常的には労働の時間にこっそり自分の趣味や生活のための活動をしたり、仕事場の物品を自分のために流用することなどを意味します。

 

『このような他者のゲーム空間【他者のルールに従ってゲームをしなければならない空間】で自分の位置を確保しようとする戦術とそれによる抵抗は、体制の支配や管理を拒否し破壊することばかりではなく、むしろそれらに見かけ上は従順に搦めとられることじたいがすでに抵抗となりうることもある。日常生活のなかで人々は些細なペルーク/機略を通して、自分より上位にある秩序、自分を操作の対象とする体制といつのまにか渡り合い、交渉を繰り返している。日常生活における政治とは、投票やデモのような方法だけでなく、そのようにはからずも行われる抵抗としても生きられているのである』

(上野ほか『カルチュラル・スタディーズ入門』p.64)

 

セルトーの抵抗戦術としての「ペルーク」は、日常生活における行為を対象として研究したものですが、黒人など周縁化された人々についての大変ユニークな考察でした。

 

そこには、サバルタンも黙ったままではいない、体制側のルールの中で搦めとられながら巧妙に抵抗しているのではないか、というメッセージが伝わってきます。

 

 

 

参考文献:

エドワード・サイード「オリエンタリズム」(平凡社ライブラリー)

上野俊哉ら「カルチュラル・スタディーズ入門」(ちくま新書)