牧童の溜息 -5ページ目

潮を吹く女たち

♪やっと開いた
 アサリの中に
 おいたするから
 潮を吹く

子供の頃、アサリをよく食べた。
ボールの中に塩水と包丁とアサリを入れて砂抜きをする。静かにしていると、やがてアサリは殻を開き、奇妙な出入管を露出し、グロテスクな中身を披露してくれる。
当時の純情だった僕にはわからなかったが、今思うに女のあそこはまるで貝の中身のようだと思う。
殻を開いたアサリの中に糸をたらすと、イャン、バカ!と糸をくわえたまま殻を閉じ、糸を持ち上げるとアサリが釣れた。こんな遊びに夢中になっていた。
アサリを見ていると勢いよく潮を吹く。これもまた面白かった。顔に潮を受け、喜んでいた。

女が吹く潮は尿なのか愛液なのかについてもよく大論争になる。

先日、ある女と一夜を過ごした。ネットで知り合い、初対面にもかかわらずシティホテルのルームで彼女を待った。彼女はなかなか魅力的な40代の女で、潮を吹いて僕を歓迎してくれた。
彼女からメールが来ていた。
《何の為に噴き出すのでしょうね‥。 貴方の指に導かれ素直になったら噴き出してしまったの‥。
お潮は‥出るのは知っていました。けれど、あんなに洪水になるなんて‥初めてでした。貴方はあわてて?舐めてくれてたよね。お皿のミルクを舐める小猫ちゃんみたいでした‥。貴方の舌はやわらかくて好き‥‥貴方と過ごした時間が夢だったように思えます。》
メールを読みながら、潮の温もりを思い出してしまった。

今夜はあの夜を思い出しながら、アサリが山のように入っている味噌汁で酒を飲みたくなった。

性的な生き物

「性欲も炬燵も出さぬままの部屋」 牧童

「私は58歳、主人は63歳。最近、主人が糖尿病のため性欲がなくなりました。今後、夜の生活がないのはとても寂しい」という悩みが、ある健康情報誌の相談に寄せられていた。

僕が若かった頃は、50歳を過ぎた女たちがセックスをしているとは思えなかった。女は灰になるまで、という話は聞いてはいたが、ジョークだと思っていた。
現在、僕は50代の女とつきあっているが、彼女はまだ若いし元気だ。 50代は男も女もまだ性的人間なのだ。

この投稿に対し、櫻井秀勲が回答している。櫻井氏はかつて『女性自身』『微笑』などの編集長として活躍し、女性学の神様とも言われた人だ。
櫻井氏の回答が面白い。
「男は20・40・60代の偶数年代ほど性欲が強く、女性は反対に10・30・50・70代の奇数年代に男を欲しくなるという説もある。 しかし糖尿病はそう簡単にはよくならないので、女性として夜の生活をあきらめるか、それとも外に男友だちをもつか、そのどちらかでしょう。 またセックスグッズも悪くありません。ともかく、チャンスに備えて、性器をいつでも使えるようにしておくことが肝腎です」

以上が櫻井氏の回答である。エロ雑誌にではなく、健康情報誌に堂々と書かれていた内容なのだ。

30代の男は疲れている奴が多い。年齢的にも衰えてくるが、それに仕事や家族の重責が加わるし、酒などの付き合いも多くなる。妻の魅力もなくなる。そして20代の自分と比較してしまうから、余計、落込んでいく。
40代になると、またゆとりが生まれ、まだまだいけそうだと元気になっていく。
女の20代は出産、育児重視に心身が変わっていく。また男と同様、若かった自分と比較することで、衰えに対する自己認識が高まることで、性欲が落込んでいく。

女の性器は使わないと退行萎縮してしまい、再開しても性交痛が伴ない、悦びを感じなくなってしまう。 愛があるセックスでさえ、苦痛になるのだ。

まもなく僕は60代に突入する。きっと今より性的な人間になっていくのだろう。
櫻井氏の話によると、60代の男と50代の女が最強の性的カップルになるそうだ。60代に50代の彼女がいると楽しいだろうな。

食わなければ死ぬ。排泄しなければ死ぬ。眠らなければ死ぬ。でもセックスしなくても生きていける。セックスは面倒でもあるが、僕は生涯、性的人間であり続けたい。衰え、枯れていく自分を嘆くことなく、むしろ老化を楽しみながら、なおもまた性的に生きていきたい。

若い人からみると、老人たちのセックスは不潔に思えるかもしれないが、僕にとっては自分自身の今後の大きなテーマになっている。
老後の性生活を考えていくと、男も女も、夫婦関係や罪の意識から解放されたフリーセックス観が必要になると思う。

女のあそこは未完成

♪花の形も
 いろいろあるが
 見れば見るほど
 奇異なもの

女のあそこの形は様々ではあるが、いずれにせよ造形的に美しいとは言えない。美人であれ、ブスであれ、やはりあそこの形は奇異なものである。
造形の神が男を作り、次に女を作ったが胸や尻を大きくしたため材料が足らなくなり、股の間の肉を取りあえずギュッと握り寄せた。つまり女のあそこは造形的には未完の失敗作なのだという話がある。
この話を聞いた時、僕は思わず納得してしまった。
造形的には女のほうが男より美しく創られていても、あそこだけが失敗作だから、裸になっても隠れているのだろう。

ストリップ劇場のかぶりつきには常連のじいさま達が陣取り、踊り子の股に顔を近付けるようにして覗き込んでいる。実に嬉しそうな、幸せそうな顔をしている。踊り子たちは観客に拍手を強制し、大きな拍手がするほうに股を広げる。僕は恥ずかしいとか、馬鹿馬鹿しいな、哀しいななどの雑念に惑わされながらも、やはり拍手する。僕だって見たいからだ。

この年まで生きてきたら、女のあの部分などは今さら珍しくはないのだが、それでもいつも見たくて見たくてしかたがない。
なぜなんだろう。
母胎回帰願望だという説もあるが、もしそうなら女同士でももっと見せ合うだろう。
覗き願望が男だけに強いとすれば、あそこを見るという行為が種族維持のための本能的性行為の中に組み込まれていることになる。男は見たがり、女も本能的には見せたがっているはずなのだ。

ねぇ、貴女だって見せたいんでしょう?本当は。
もし見せたがるのが女の本能ならば、見せたいという本能を、見せたくないという意識へと人間社会は変化させてきたことになる。
もし母胎保護を含め、見せたくないというのが女の本能ならば、見せたくないものを強引に見ようとする男たちによる強・姦が本能的な行為だということになる。