どんな幸せを望む?と自分に問いかけてみると、ささやかな幸せがあればいいと思う。

ささやかな幸せってなんだろうと考えると、普通に生活をするということではないかな。何をもって普通なのかは、考えると結構難しいけれど。背伸びをせず、普通に頑張ること。当たり前のことをすること。

普通の人が普通に生きられる社会が望ましい気がする。恋人も普通の女性がいいと思う。美人でなくても、普通に優しく思いやりがあれば。

理想と現実はズレていて当たり前。頭の中の理想は、唯一無二の存在を生み出す。高い理想は抽象的で身体がついてゆかない。なぜなら普通ではないから。

結婚するなら普通の人。先日、友人の結婚式に出席した。新郎新婦ともに普通の人。でも、とても幸せそうに見えた。

普通を追求すると、実は特別になる。
歩くの好き? ブログネタ:歩くの好き? 参加中
地方から上京してきて、一番変わったのは歩くということ。田舎はとにかく移動手段が車か自転車で、大人になったらほとんど歩かなくなる。むしろ歩いている人が少数派のような気がする。

その世界感がどうしても嫌いだった。車がないと社会生活が出来ない感じが。でも、それってやっぱり歪んでいると思う。車が前提の社会なんて、変だ。人間が人間らしく生きるには、まず動物として当たり前の身体の動かし方をしなければいけないだろう。その当たり前が、歩くということなのだ。

都市は、電車があって駅から目的地までは歩く。それがとても気持ちが良い。地方の人より歩くことに関しては、よく動いている。

地方都市もどうせ都市化を目指すならば、公共交通に力を注いだら良いのになぁ。路面電車が街の中心に一本通っているだけでも、歩く機会が増えると思うけど。県外からも、観光客が増えると思うし。

車に乗ればそれだけ身体の自由が制限されていると自分は思うのです。
今朝の新聞で、少しでも古くなったコンビニの弁当は捨てられるという記事を読んだ。企業の利益優先によるらしい。
一体、どのくらいのお弁当が人体を通らずに廃棄されていくのだろう。とてつもない量ではなかろうか。

食べ物は元々生き物であって、それが殺されて、加工されて出来る。廃棄されていく食品の「命」ってどうなるのだろう。「そんなの知ったことか」で済ますのか。

「命を大切にしよう」と大人は子供に言う。しかし、社会としては全然命を大切にしてはいない。だから、子供に命の大切さを教えられなくて当然ではないか。

「働かざるもの食うべからず」という言葉は、今ではきっと通じない。昔の人は、本当に働かないと食べていけなかった。今では、捨てるほど食べ物がある。大量に食べ物はあるがゆえに、損失になる食べ物は捨てられる。

人口が増えて、それだけの人口分の食料を確保するには、余分が必要なのだろう。大食い番組を見ていてうんざりするのは、なんであんな無駄に食べるんだということ。牛も豚も、ただ大食いをされる為だけに殺されている。それが変だとは思わないことが変じゃないのか。

それだけ「命」を粗末にしているのに、地球環境をなんとかしようと運動するのは変だ。環境問題って空気のことだけなのか。

生きるのに必要なだけの命を有りがたく頂くというのが理想なのだろうか。そうすると原始時代に戻って、狩りをして生活をする。まさに「働かざるもの食うべからず」の生活だ。その日ぐらしで、富もないから戦争がないだろう。自殺なんて、不治の病でもなければ、きっとしない。

原始時代は、寿命が短くて「死」が身近だった。いつか死ぬという確信があった。今は、しばらくは死なないという根拠のない確信があって、余計なことばかりしている。