死と生に学んだ日(重いタイトルになってますが、、、) | 新・迷って、悩んで、でも笑ったりもして…。

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不惑の40代などと言うものの、40代になってから「踏んだり蹴ったり」、「弱り目に祟り目」な日々…。
あれから幾年過ぎ、日々の一喜一憂を好き勝手にほざいてる次第です。

 今日は考えさせられた2つの会に立ち合いました。


 今朝は、これまで何度となく仕事でお世話になった方のお父様のお葬式に参列。
そのお父様の訃報を聞いたのが一昨日、私の父の命日という偶然もあり、不思議な縁を感じた。
 式の最後にそのお父様が尽力していた地元の町内会長さんの挨拶で、故人は中卒で仕事の現場でずっと働いてきて45歳になったとき、定時制の中学に入学し、卒業すると、今度は高校へ進学し、卒業後にはなんと大学入学まで果たしたという立派な方でした。
 45歳。今の自分の年齢です。
今の私にもう一度学校へ通学し学ぼうというパワーはない。
いや、その気持ちはある。でも所詮うわべの気持ちにしか過ぎないと思う。
 そしてご家族代表として私の知人が挨拶をされた。
昔ながらの日本男児で口数は少なく、じっくり父親と話したことはなかったという。
しかし、無口で無骨な父の背中や生き様から学ぶべきものが今与えられました、と言う言葉に、世にいる多くの不器用な男性への最高の賞賛なのではと感じました。


 夜はひょんな事から、とても普段接することもないような権威あるお医者様との食事会に同席した。
声帯医学の第一人者の一色先生という80代ながらとても柔軟な心と頭をお持ちの方でした。
 先生はここ数年、NHKがずっと追い続けている、声を失った韓流オペラ歌手のベー・チェチョルさんの復帰のための執刀医をされた方です。
 ベー氏の手術は、普通の人が声が出るようになる手術と違い、プロの歌い手として使い物になる声帯への復帰手術ゆえ、そうとうなプレッシャーがあったようで、「本当は誰か、“私がやります”という言う奴が出てこんかなぁ」と思われていたそうです。
 言い換えれば、ダルビッシュ勇の腕が切断されたものをプロ野球選手として復帰するために元に戻すようなもの。(ダルビッシュ選手、変な例えに使用してすみません!)
 それは大変だったそうです。
そもそも声帯の手術の難しさは、例えれば、自分の皮膚にセロテープをしっかり貼って、上からカッターでセロテープだけを100%切り取るような神業が必要なのです。
それほどの難易度をはるかに凌ぐ高レベルの仕事を求められたのですから!
 ところが、世界的権威の教授は違うんですね。
やると決めたら、自分に課せられたプレッシャーとの対峙を、またプロ歌手が求める高度の蘇生術を楽しんだというのです!!
 いやぁ、プレッシャーに弱い自分からすると、「どうして、そんな風になれるの?!」という気持ちです。
 自分に与えられたフィールドでチャレンジする勇気を持つことが人生を楽しむ1歩なのかと痛感した夜でした。