子育て*自分育て*親子のこと〜公認心理師目指して勉強中です〜 -2ページ目

子育て*自分育て*親子のこと〜公認心理師目指して勉強中です〜

公認心理師を目指して大学で勉強中です!
7歳の男の子と5歳の女の子を育ててます。




ご無沙汰しております。

アメブロをやめたわけでは
なかったのですが、

いつの間にか前回の投稿から
5ヶ月以上空いてしまいましたえーん




間が空くと投稿するのが
気恥ずかしくなっていたのですが、

ブログをずっと読んできて下さった方が
久しぶりに投稿したら?と背中を押して
下さり、今日久々に書くことができました。

ありがとうございます!




ブログを書けない間は、

自転車で横転して前歯を折ったり

ママ友とトラブルになって
めちゃめちゃ腹が立ったり

色々ありましたが…

主には大学の勉強に追われていました。




公認心理師という資格取得のために一昨年
大学の心理学部の3年次に編入し、
通信課程で勉強しています。




68単位取らなければいけないうち、
ようやく40単位取得をこえて
少しずつ先が見えてきました。




通信課程ですがどの科目にも講義が2日ずつ、
それからレポートと科目試験の3段階を
クリアして初めて、
2単位か4単位を取得できます。



毎月レポートと試験勉強に追われます。

正直、大学で学ぶということを
なめていました。




心理学の勉強の範囲はなかなか広い。

心理学入門、概論から始まり
社会心理学、教育心理学、臨床心理学…と
○○心理学が計24科目。

特に心理統計は理系すぎる。
実は心理学は実験科学…。







それぞれの科目に理解しなければならない、
覚えなければいけない定義が盛りだくさん。


いちいち用語が難しい。
試験前日の夜は毎回泣きそう。。


勉強時間は幼稚園生と小学生の
子どもたちがいない午前中が勝負。




たとえば社会心理学で、

「フェスティンガーの
認知的不協和理論の態度変容に
ついて述べよ」


みたいな論述問題を前にすると、





これ書けたからって
良いカウンセラーになれる訳でも
ないよなぁ…


まして試験前なんて
子どもたちに早く寝て!!
とキレる自分、情けない…



私、何のために
勉強してるんだろう?



ということが
ふと頭をよぎったこともありました。




以前通っていた
心理カウンセラー養成講座の仲間にも、

「大学で心の勉強して何になるの?
経験あるのみでしょ」

と言う人もいました。




私もどこかでずっと
そんな風に思っていた。




けれど、
うまく言えないのですが



最近は大学で体系的に
心理学という心を扱う学問を学ぶことは

心を理解するために決して無駄ではないと
思えるようになってきました。




心は目に見えないから、
その理解は主観に偏りやすい。



けれど、心理学の歴史は他の学問より
浅いとはいえ、

心について脳、生理現象、社会など
様々な観点から研究している人が
たくさんいて、


その知見はカウンセリングの場だけでなく
社会の色々な場所で役に立っている。




心の理解は主観に偏りやすい分、

学問を通して色々な人の研究結果、
意見、考え方を知ることは

視野を広げる一助になると思いました。




ただし、
やはり大学の勉強だけをして
良いカウンセラーになれるわけでは
ないとも思います。



座学だけでなく傾聴や心理療法の
トレーニングを受けることや、

自身がまずカウンセリングを受けて
自分を知ることも

並行して必要だと思います。




元々心療内科の患者スタートの私は
ここ数年も月1ペースで
カウンセリングを受け続けています。




人のことより自分を知ることが
何より難しく終わりがない!

心の揺れ、自分の弱さ、強さ、
日々感じ続けてます。




けれど基本的には
「私は、大丈夫」と思える土台を
育て続けることが


カウンセラーになることと共に
自分の人生の目標です。




楽しく勉強続けます!





木更津の夕陽です。

ゴールデンウィークは
苦手な遠出を達成できました笑い泣き





南青山での児童相談所を併設した施設の
建設反対のニュースを観て、
残念な気持ちになりました。


メディアでは一部の人の過激な意見を
クローズアップしすぎな面もあると
思いますが、


児童相談所に対して良くないイメージを
持つ人が一定数いることを、
今回改めて知りました。



そしてそうした人は
南青山に住む人々だけでなく、
全国にもある程度いるんじゃないかなと 
思います。




児童相談所を悪く言う人の
言葉を聞いて、
最初は腹が立ちました。




ただ、しばらく経って思い直しました。
この人たちはただ、知らないのだなと。



児童相談所を必要とする人々のことを、
必要になるかもしれない人々のことを、

たまたま知らないで
生きてこれたんだなと。

それを良い悪いで判断することも
難しいなと思います。

無知は誰にでもあって
気付きづらい。




児童相談所はなんのためにあるのか。



虐待の認知の増加に伴い
児童相談所での保護を
必要としている子どもが
年々増えていること。 



家族形態、育児体制の変化、

また虐待の世代間連鎖の観点からも
虐待の増加を食い止めることは
簡単ではないこと。

たとえ見ないふりしたって
虐待がなくなるわけではない。



児童相談所に保護される子たちは
犯罪者ではないこと。



また公的に子どもを保護できるのは
現在の日本では児童相談所しかないこと。
 
隣の子が虐待されてることに気づいても
自分の家で育ててあげることは
できないですよね?



さらに、たとえ児童相談所に行っても
保護の限界から家庭に戻されてしまったり、
現在の児童相談所には課題もたくさん
あることも。





自分の家の近くに児童相談所が
できることには反対する人たちも、


虐待されて死んでしまった子のことを
報道で知れば、


可哀想で涙が出る、
代わってあげたかった、
許せない、
忘れない、

とか言うのではないかな。




子どもを助けてあげたいと思う時に
必要なのは
同情することではなく、


虐待について知ること。


虐待は起こるという事実から
目を背けないこと。


虐待する親を責めるだけでは
何も変わらない。  


親もまた虐待という形で
言葉にできない保護を求めています。




子育てはきれいごとじゃないと 
思います。


私も今日まで子育てをしてきている中で

どうしたらいいかわからなくなること、
誰に助けを求めたらいいのかわからなく
なること、何度もありました。



だから児童相談所のことは
決して他人事ではない。



子どもを育てていると、

元、子どもとして
今、親として自分が試されて
壁にぶつかって苦しくなったり、

時に孤独で、
自分を責めてしまうことも
たくさん起きる。



親も子も相談できる場所、 
家庭以外の居場所、
もっともっと増えてほしい。



子どもは社会で育てるものという意識は
きれいごとではなく現実であってほしい。



泣いてる子どもを見て舌打ちするような
おじいさん、おばあさん、

その年まで何を学んで
生きてきたのかな?



どういう仕組みを整えれば
社会で子どもを守れるのか、
救えるのか。



すぐに答えは出せないけれど、
ずっと考え続けなければいけないことだと
思います。







子育て中と謳いながら
それに似つかわしくない
タイトルです( *`ω´)



昨年、好きな人がいました。



けれどその人は奥さんやお子さんを
大事にしている人で、

幸い見向きもされませんでした。




寂しくて思わず恋に落ちたら
余計に寂しくなりました。

結果自分で傷口を広げただけ…。




会いたいと思う気持ちは活力で、
そして底なしの寂しさでした。




ある時言わずにいられなくて
好意があることだけ
伝えました。


その人はただうなづいて、
気持ちだけ聞いてくれました。





間違わない、
正しい人でした。


その賢さが魅力であり、
現実でした。


もちろん、私にその人を
間違わせるだけの魅力がなかった
ことも大前提でしょう。





受け入れられなくて良かったと、
誠実な人で良かったと

どこか心から安心する気持ちと、



嘘でも良いから
遊びでも良いから
受け入れてほしかったという
気持ちの間を数ヶ月、

行ったり来たりし続けました。





こんな気持ちは無駄なんだと
毎日自分に言い聞かせて、

けれどふとした時に
涙が出て、

そうか、私は悲しいんだなぁと
気づいたりしました。





自分を恥ずかしいとも思いました。


奥さんのいる人を好きになって、
自分の卑しさにも気づきました。


ある時痛烈に恥ずかしさに襲われて、
それを機にときめきが消えました。


気持ちが死ぬって、あります。






そして時は経ち…


恋心がなくなった今思うことは



あぁ、やっぱり
何も起こらなくて
良かったんだなぁ、



です。





恋してる時は
結構頭おかしくなってました。
あれでは正常な判断はできない…。



なんであんなに感傷的だったんだ?

あれ、なんでだ?

と思う。冷静に。

手帳に書き留めた自分の言葉に
目を疑う…。





ドラマチックに不倫に走ってしまう人の
気持ちもちょっとわかる。


既婚者の恋ほど
理性と欲望の間で揺れるもの
あるだろうか。


焦燥感も辛かった。
もうそれに追われなくて良くなって、
安堵。平穏。





変なことして下手に罪悪感
抱えることにならなくて良かった…と


思います。





それでも、
ときめいた気持ちは
何にも代え難いものでした。




その人に好かれているかもと
思うことは甘美で、

その人に嫌われているかもと
思うことはゾッとするくらい
怖いことで。




そんな両極端な気持ちを味わえて。
たくさんたくさん意味なく揺れて。


いい大人が踊りだしたくなるくらい
はしゃげる瞬間があって。


生きてて良かったなんて
思ったりして。


2人だけで話せた時間は
ほんのわずかで、

けれどだからこそ
その時間は記憶の中で
みずみずしい。





さぁ、真面目にお母さんしよう。








関係が難しい母親と距離を置くべきか?

今、私は置いて良かったと思っています。

実家に帰らなくなって2年目の夏が
過ぎました。




距離を置くことにはメリット、
デメリット共にあると思います。




デメリットは、

親孝行できないという罪悪感や
根本的な心細さ、

また子どもがいる場合は
ちょっと子どもたちを見てほしい時や

長期休みにも頼れないこと、


また子どもたちから
おじいちゃんおばあちゃんとの
関わりをなくしてしまうこと、


また園ママなどでお母さんにちゃんと
頼れている人を横目で見ながらの
劣等感…(これ結構大きい!)

などが挙げられるかなと思います。





反対にメリットは、

やはり関わらなくなったことで
会話や行動から受けるストレスが
なくなったこと。




物理的にも精神的にも
母親と距離を置くことで
自分のことも母親のことも
客観的に見えるようになってきた。




愛情を受けたと思わなきゃと
自分に無理をしてきたことに、

ちゃんと、あれは私は、嫌だったと
思えるようになった。




その代わり、母は母なりに
頑張ろうとしていたのだとも
思うようになってきた。




迷惑をかけたと過剰に思ってきたことに
それは迷惑をかけたと思い込まされた
だけだったこと、

あるいは自分の思い込みでもあったこと。




私はまだ母に感謝する状態には
ないけれど、

距離を置いたことで、
憎しみからも離れられてきました。

これは自分がすごく楽です。




当初は強くあった、
親に連絡をとらないという罪悪感も
時間と共に薄れてきました。





母は母で
仕方なかったんだなと。


他罰的な人(人を罰しやすい人)は
自分の痛みと向き合う強さがないから、
人を攻撃してしまう。


自罰的な人(自分を罰しやすい人)は
必要以上に自分を責めてしまう。





良い、悪いではなく
世の中には色んなタイプの人がいる。


自分と違う人を批判することより
自分がいかに楽しく生きるかに
命をかけた方が良いと
つくづく思えるようになりました。






そんな思いの中で
許す許さないという感覚も
溶けてきました。

色んなことが、仕方なかったと、

何より自分に優しくなりました。





そもそもなぜこのことを書こうと
思ったのかというと、

それはたまたま過去の日記を
読みかえしたからでした。




母は娘の私に
不満を抱き続けた人でした。




ある時、
母が電話で一方的に言い続けた
私への恨みつらみを
自分で書き残しました。




それは私が小さな頃から繰り返し
言われてきたことだけど、

文字にしてみると
改めてきついものでした。




書き残した当時は
本当に悲しく、

気持ちが重くて
起き上がれなくなるくらい
傷つきました。





が…

今回それを読み直して思ったのは、




あっっそ。
だから何?!


でした。




私が罵られたことは全て
母自身の問題で、

私はただのサウンドバックだった。





母にはとても
弱いところがあった。


けどその弱さは
私が抱える必要はないや。


自分のことは自分で幸せに
しなきゃね。




と心底思い、
もはや胸は痛みませんでした。






母親と距離を置くこと。
人知れず孤独と痛みを味わいます。



お母さんとの関係に悩む人がみな
選ぶべき選択とも思いません。




離れられない中での

堂々巡りの怒りや消せない期待、
認められたい悲しさもよくわかるので、

関係を続けながらも苦しむ人に対して
甘えてるなんてことも全く思いません。





そういう人に対して、

離れないからだよー
離れちゃえば楽なのに〜と
優越感を持つような人間には
ならないようにと気をつけたい。




どんな人にも事情がある。
その価値観を持つまでの背景がある。




むしろ渦中にいる時の苦しみこそ
大きなものだと思います。





上に書いたように、
母親と距離を置くことには本当に
メリットデメリットの両面があるし、


人は正解の中だけでは生きられない。





お母さんというのは実家の存在も
込みだから、お母さんとだけ距離を
置くことも難しい人もいると思う。



そもそも、
私は母親嫌いだけど
縁を切るとかはないわーと思う人、


母親を嫌いと思っちゃいけないと
潜在的に深く縛られている人、


自分は親を背負ってるという責任感から、
親から離れられる人は楽で良いよねと
嫌味を言いたくなる人や


親の体調面から距離を置けない人など




お母さんとの関係や気持ちも

人生のタイミングも

本当に人それぞれだと思うから。





なのでここに書くことは
あくまで私個人の
小さな小さな体験です。





私は痛みを負った分、
勇気を出した分、

得るものもありました。



失くしたものだけでは
なかったのです。



表面的に関わりながら、
被害者気分でい続けた自分は
振り返れば嫌です。

 

その状態を続けていたら
私はこの先もそんな自分から
抜け出せなかったかもしれない。




恨みながらも感謝しなきゃという
相反する思いを抱え続けると
心身ともに蝕まれます。

これが親子の苦しさの源かな…と
思います。





感謝しなきゃいけないと
思わなくなった時、

自然と感謝が湧いてくるのかもと
今、学びつつあります。





親と普通に付き合えている人を見れば
もちろん羨ましい。

なぜ自分は…とも思う。
何度も思ってきた。

けれどカウンセラーの先生であり
人生の大先輩は、



人生は支出(悲しみ)が多いほど、
収入(喜び)も多いのよと



励ましてくれます。



これからはどんどん
収入が入ってくるのよ!と。




それに心細さは
若さの証拠でもあるのよ、

おばちゃんになれば
気にならなくなるから♡と。





もし今胸を痛めつつ、
消えない心細さを抱えながら、

母親と距離を置いている人がいたら、

共にこの今を精一杯生きようと
言いたいです。

あなたの痛みや心細さは
この先決して
無駄にはならないはずと。



{F5507CD3-D01C-4206-A8F6-A69B60D0FB4D}





ご無沙汰しております。



この夏家族のことでしんどいことがあり、
パニック障害の恐怖感が
再発しました( ;  ; )

ある日突然、
電車に乗れなくなりました。




一番調子が悪い時は
息をするのも精一杯、
立ち上がるだけでも勇気がいる
なかなかダークな夏でした。




ここ数年は抗不安薬なしでも
新幹線に乗れるくらい
良くなっていたので、

地下鉄の一駅でも恐怖に駆られ
降りてしまったことは、
本当にショックでした。




しかもこれまでの私の恐怖感は
主に電車だけだったのに、

今回は外に出るだけで
暑さが恐怖感になり、
結果外出すら恐怖に。




けれど子どももいるし
家にこもるわけにもいかない。

残念ながらこういう時に
頼れる家族もいない。

近所のママ友に頼ろうマインドも
相変わらず育ってない。




子どもと遠出はできない分、
お祭りとか近場でできる楽しいことは
極力参加してあげたい。

恐怖と戦いながらの外出で
夜には疲れ果てました。





そういう状況に落ち込んで
無気力感も大きく、

スーパーに行っても頭が働かない。
何を作ったらいいか考えられない。
何も食べたくない。

食欲も落ち、
体力も落ちる悪循環…。




好きなこと、楽しいことも
驚くほど思い浮かばない。




大好きな合気道の道場でも
暑さから恐怖に襲われパニック。
稽古にも行けなくなり悲しい。




挙げ句の果てには
家にいる時まで
突然動悸が激しくなり
不安に。





いっとき治る前より
悪くなってるじゃないか…!!




絶望しました。




パニック発作からうつ病になる
という話もこれならわかる。





心の病って、本当につらい。

襲ってくる恐怖感は
言葉にしきれない。

理性が働かなくなるのです。




思考も身体も得体のしれない恐怖に
支配されて、自分でコントロールできない。

自分はどうなっちゃうんだろう、
とてつもない不安は、死ぬより辛い
のではないかとすら思う。




それまでに1000回電車に乗れていても
たった1回の恐怖感で震えるほど怖くなる。


不安は必ずおさまるとわかってはいても、
その渦中が強烈で身体が覚えてしまう。


〇〇すると不安が和らぎますよ、
というネットや本に数多くある
アドバイスも、

一番ひどい時は
とにかく理性が働かないので
全く役に立たない。

むしろそれを無理にしようとして
出来ない自分に余計落ち込む。





また自分の性質も呪わしい(T-T)



生育環境や
現在の環境の影響もあるけれど、
やっぱり生まれ持った性質が
大きいよね…と今回つくづく思う。



小さい頃から神経質なところが
多々ありました。



心臓に毛が生えたような人間に
生まれたかった。

立ち止まることなく時に鈍感に、
ただ走り続けるような人生がよかった。

走り続けられず、
しょっちゅう転ぶ自分。

とメソメソ…。





ただ、この夏は幸い

上の小1の息子がキャンプや
習い事の合宿などに積極的に
出かけてくれて、

下の4歳の娘と2人でいられる時間=
多少は休める時間

を確保できたことで
助かりました。


(兄妹2人でいると絶えず大騒ぎ、
喧嘩ざんまいなのでストレスに拍車が
かかる)




この夏休みは娘をあまり外に連れていって
あげられなくて胸が痛かったけれど、

とにかく休むことで
だいぶ体力、気力を回復できました。





それから早めにカウンセリングを
受けました。

外出は苦なのでスカイプで。

カウンセリングには
必ずしも治癒の即効性はないし

人によっては症状が落ち着いてから
受けた方がいい人もいると思いますが、

私の場合は信頼している先生に
現状を理解してもらうだけでも
不安な状況の歯止めになったと思います。





それから、本当につらい時は
やはり抗不安薬のお世話になるのも
良いと。

私は抗不安薬が苦手で
極力使わずにやってきました。



けれど不安がピークの時は
脳内物質の異常事態だし、

薬の力に頼ってもいい。
それ以上の不安イメージは阻止できる。
今回素直にそう思いました。





ちなみに心療内科の
爪が真ピンクな
ちょっとファンキーな女医さんは…



え?また電車乗れなくなった?
じゃあしばらくタクシーで!


え?抗不安薬飲むとだるくなる?
たまたま疲れが重なっただけじゃない?


あなたの量で頓服で依存とか
まずないし。気のせい気のせい。


落ち着けばまた薬なしで乗れるから。

だってこれまで乗れてたじゃん?

今の辛いこと落ち着けば治りますよ。
一時一時、治るから〜


と、良いのか悪いのか
軽い。




いや、その軽さにも救われました。






そしてここ最近、
一時の猛暑が落ち着いてきて、
少し涼しい風が吹くようになってから
安心感が出てきて、

恐怖感や不安感も少しずつ
落ち着いてきました。




こうして自分のことを文章に
できるように。




また今週は暑くなると聞くと
少し不安ですが、
不調のピークは越えたかな…と思います。




今日は大丈夫だった、
今日は不安になったけど
なんとか1日が終わった、

そんな小さな大丈夫を積み重ねて
自信を取り戻していきたいです。






今回何よりショックだったのは
やはり再発したということでした。




こんな再発するような人間が
心理師目指すとかだめじゃないかと
自信もなくし、大学の勉強にも一切手が
つかなくなりました。




けれど、今回のことで
改めて発見もありました。





1つの目が、

結局何かストレスがかかる引き金があると
元に戻ってしまうのかということで
自信をなくしたけれど、

経験がある分対処法はわかるし、
頼るべき人もわかるし、

元=0ではないということ。




完治にこだわらなくていい。
一生患者の部分があり続けたっていい。

持病だと思って付き合い続けよう。
おばあちゃんになる頃には
気にならなくなってるかも。




それに自分が経験していることで
いつか仕事で出会う
クライアントさんの気持ちにも
きっと近づける。だろう。

頑張ればなんとかなる!思考の
カウンセラーさんは私にはちょっと
きつい。

頑張れないことって本当にある。

その哀しさ。恥ずかしさ。
情けなさ。

それを知っているかいないかも
一つの財産かな…と。




2つ目が、

やはり自分の中の価値観、
ものを見る前提を本気で変えないと
まずいかなということ。



どうしても「ないもの」に気持ちが
いきやすく、そのネガティヴさが
現状の家族関係を悪くしている、
気がする。



カウンセラーの心屋仁之助さんの本に
あった言葉がわかりやすかったので
参考にしました。



自己イメージの前提を変える。

大事にされない自分だと思っていると
その証拠探しを延々して不幸のまま。

反対に、大事にされる自分が前提だと
その証拠探しで幸せになる。




単純だけど、
単純なことほど難しく
そして大切だと思います。




今の自分が恵まれていることを
書き出してみました。

ないと思ってるものより
何倍もありました。




こんな小さなことでも
思考は変わりそうです。

気持ちを新たに、
根気強く続けよう。






自分の性質も、家族も
簡単には変わらない。

「現状を変えられない自分」を
ただ抱え続けるしかない日々も苦しい。



人生が劇的に変わる出来事や

精神安定剤みたいな人に出会えた!

私を全て理解して愛してくれる人に
出会えた、完治!


みたいなことも
まぁ起こらない。



辛い時こそ藁にもすがる思いで
劇的な変化を期待するけれど、

実際は掴む藁なんか見つからない。




それは自分で人生を変える
チャレンジができないからでも
あるのだけど、




私は恐らく淡々と、地味に、
じわじわと苦しみや喜びを感じながら

行ったり来たりしながら、
本当に行ったり来たりしながら、


生きやすさを
学んでいくのだろうと思います。




ガツンと来る出来事は
それまでの頑なさから脱皮する
チャンスなんだろうな。






今33歳です。
10年後、43歳。


息子は高校生、娘は中学生。


10年かかれば
人生はかなり変わると思う。


現に23歳の自分と今では
精神的に得たものがかなり違う。


その頃にも元気で生きていると
信じて、

そして心理職に就いて
一生懸命働いている姿を信じて
進みます。




すごく長くなってしまいました。

ここまで読んで下さり
ありがとうございました。


{0DF02811-0530-400B-A2F2-E24717BF2B0E}

娘が撮った、秋田のにぎころちゃん。

現状を心配してくれた
私の擬似お父さんとお母さんが
送ってくれました(涙)