よく、仕事を通じてわくわくする目標を設定したいよね、なんて話を聞くことがあります。
仕事を自分のこととしてできているのか?
いわれたから仕事をしているのか?
根本のこの「観点」がずれている場合、修正は不可能なのかもと最近考えるようになりました。
この話は仕事という言葉の概念が広すぎるからかもしれないのですが、
自責で物事を進めるということは、設定しなくても本人には何らかの目的が存在するからであって、目的が存在しない限りは反応や生理的現象でしかありません。意識的に動くということはそういうことだし、その結果わくわくする目標と一致すればそれは強いモチベーションとなって、人は突き進むものでしょうね。
しかしながら、仕事という言葉の意味を「働かされている」「働いてあげている」といった他責の観点で考えている場合、対象が他にあることから、強制や恐怖、責任などによって意識的に動かないとダメだという状況なわけです。
「わくわく動かされる目標」なんて想像できますか?
踊らされている、洗脳されてしまい心にブレーキがかけられていない、逆に恐怖で心を開けることができない状況などを想像してしまいます。
私が言いたいことは「自らわくわくする目標を設定することは理解できること」なんだけれど「人に言われてわくわくする目標なんて設定できるわけがない」と言いたいのです。
だから、わくわくすることは自分で真剣に探すべきです。探せとは言いません。探すのです。
僕もまたわくわくすること探そっと。