非常口 -2ページ目

非常口

前向き、後ろ向き、グルグル・・
不愉快な方はスルーして

前から計画があった

キッチンの床張替えとシステムキッチン取替えがいよいよ具体的に決まりそうで

正直、なかなか大変だ。

日曜日には業者さん(大工さん水道屋さん電気屋さん)とシンク屋さんである親族がやってくる。

キッチンだけでは済まなそうなので前から気になっていたところの整理を嫌々ダラダラと始めた。

 

本とノートとCDがとにかく多い。

片付けとは過去の自分との対峙である。

ついついそれらを広げると

昔の自分にハッとさせられたり、読み込んでいない情報や

過去の自分が書いていたことに勉強が出来たりして

またついつい元の場所に戻そうとしてしまう。

その時の一生懸命さに引いたり、気が引き締まったりする。

 

最近頑張って何かする意欲が低下しているので

 

主婦のくせに散財もして、それでその時は迷いながら突き進んでいたけれど

まぁ、良かったのかもなと振り返ることが出来た。

色々やって良いじゃないか、と。

たまにはアクセル踏んでもいいんじゃないかと。

最近アクセルなんて、てんで踏んでいないのだよ。

いわゆる惰性で平坦な道を進んでいる。

惰性でも、毎日物事は起こるし、その中をゆるーく進んでいる。

それもいけないことではないんだけど。

 

さぁ、片付けも進めよう。

あともう少し頑張ろうか。

 

 

 

 

欲、目標、夢

 

よくおじさんおばさんが、年を取ると失っていくと言っていたイメージだけど

ついに自分もそうあるのだ。

夫がいるだけで十分だし

今ある物、持っているものだけで十分だし

欲しいなと思うものは大して値がはらない。

美味しいものは食べなくてもいいし、

寝て起きてご飯食べて寝てで

いいやみたいな感じで毎日過ぎていく。

夫のお陰で苦労もなく

十分贅沢な暮らしをしているせいかも知れない。

誰かに会うために綺麗にしよう綺麗でいたい

という欲もない。

肩の力が抜けて魂まで抜けかかっている。

 

 

自分の本来好きだったことってなんだったっけ。

 

旅、音楽、知らない人との会話、語学勉強(毎度挫折)

映画、読書、美容、運動、字の練習、仏像、美術館、建築

ハーブ栽培、薔薇、短期カルチャー、物思いに耽る

 

 

ありがたいと思って満足している証であるけれど

欲を失うということは

一緒に努力から生きる力からエネルギーも失って

他人を喜ばせたい力になりたいという

元気さまでも、今枯渇して、なんだか頭も回らない。

とにかく元気が足りない。

 

あの、昔の歌謡曲

「いつでも夢を〜、いつでも夢〜を〜」だったか、

あれは年を取らなきゃ本当の良さは分からない曲だったのだな。

 

と言っても、やはり現状に不満が無さすぎて

具体的なエピソードとして4月には

キッチン取替え計画の際、夫の提案がわたしには贅沢すぎて

ありがたい気持ちやなんや感や

キッチンなんてなんでもいいのに、

私しかほとんど使わないのにっていう思いもあり

訳わかんなくなって、メソメソ涙を流してしまった。

贅沢な悩み。

ウィリアムモリス柄の物をよく見る。

 

前に壁紙で見た時にはうっとり夢のような気持ちになった。

庶民にはクッションカバーや寝具、カーテンで十分贅沢な気持ちになれる。

(と言ってもそんな自分の趣味に家族を巻き込むのは我儘なので出来ないけれど)

最近はどんどん身近になって100均でもコッタでも

文房具からパッケージまで見かけてちょっと嬉しい、のだが

 

ウィリアムモリスって版権過ぎてんのかなと思ったら

とうに過ぎていてちょっと複雑な気持ちになった。

そりゃ、好きな柄を手に取れるのは嬉しい。

だけどモリス商会とか関係者親族に何も入らず何の得にもならないまま

モリス柄で利益を得るのかと思うと、なんだかなぁって。

版権切れで商売するなら、

何か代わりに収入のごく一部を社会貢献に充てるか

もしくは直接連絡取れるのなら、使います、いいでしょう

ちょっこっと本当に僅かだけど貴方方に、、チャリン

 

なんていかないかな。

 

と思うくらいウィリアムモリスの柄が好き、な話

 

 

 

何の話

 

彼がいれば

 

陽気でおどけた笑顔の中に、

どうしても隠せない、人間くさい不器用さが滲むような人だった。

ちょっと不器用でもみんなが彼を愛し笑い合い、堂々と真ん中にいる人だった。

そんな彼に世の中は優しく

(それは彼が愛される人格を持って、人に接してきたからだと思う。)

そんなやさしい世界に、大丈夫だといつも安心感を貰っていたのかもしれない。

彼が居なくなって世の中は少し寂しくなった。

まさか、上島さんにこんな感情を抱くとは

 

 

鬱々とした人ほど、いつの間にかその存在に救われていて

居なきゃならない人だったのかも、しれないな。

 

優しい人がまた一人、居なくなってしまった。

 

奢りのない姿、輪の中で楽しそうにいる姿

ネタ中の必死で真剣な姿

どれもこれも、貴重でかけがえのない姿だったのだ

今になって気付かされる。

 

昨年ツイッターで感想を読ませて頂いていた作品ようやく観たよ、

嫌いじゃないなって言っていたような記憶。

 

と言って詳しいことは全く知らないまま見た映画。

 

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逃げることもせずに(出来ず?)ズブズブと溶け込んで染まっていく主人公。

結構グロいというシーンは、客観的かつ冷静な視点を保ちつつ、見せすぎない煽らない描き方で、見ていてさらりと流せる。

ちゃんと真面目にやっているけど、作り物のように見える死体は優しさなんじゃないかと思う。

生々しいんだけど、そこに躍起にはなっていない。

描きたいところは、そこより共同体の平常化した狂気なんで!という感じ。そこ良かった。

それとも、「人形のよう」であることがリアリティなのか。

 

ホラーというかドキュメンタリーみたいにも見えた。

ツッコミながら見れた部分もあって、やはり優しさか?と感じたり。

 

こんなにもお花を散財させ使いまくる集団はさぞ、映らない場所に広大な花農場を持っているのだろうな、とか、人の歩く部分だけ生えた黄色い花は、、とか、最初から描かれていたクリスチャンの優しいのとは違う優柔不断さとか。

性儀式みたいなのも、大真面目に滑稽だった。

 

90年に一度の割に小さな子供まで淀みなく儀式に参加し仕事を担っていて

初めてだろう割に、これどうするの?という仕草がない。

スウェーデンだったっけ?よく文句言わなかったな、とか。

近親相姦で生まれた子供の容姿がいかにもで、最近の風潮から大丈夫かなと思ったり。

 

シリアスだけどツッコミどころ満載で

思い出してはそれを一つ一つ上げたくなるところがこの作品の魅力だと思う。

牧歌的な歌、白い服の人々、厳かな食事シーン、薬草混じりの液体を飲まされ、最後の一人になるまで踊り続けねばならない地獄のようなくるくるダンス!全裸であたふたと逃げるクリスチャン。

どのシーンをとっても変で、どっかの世界に紛れ込んでしまったような、ギャグなのか?と不謹慎にも思ってしまう。

 

 

ネタバレすると、あぁ、こうなったか、と。

観ている間じゅう私は早く逃げたかったし、逃げて欲しかったんだ。

ダニーと観客の間にある溝を最後に思い出す。

ダニーは元からちょっと生きづらく、何かおかしくて(私は家族を殺したのはダニーだと思っている)現実に息苦しさを感じている役だったのだ。

 

 

カルトと一括りにしちゃいけないけれど、

薬と性と生贄はマストというか、入れるべくして入れたんだろう

 

集団の中にいると当然で当たり前のこと

集団の外から見るとおぞましいこと

観客の大部分は集団の外からこれを見るんだけれど

立場変われば気付かないんでしょうねってところに怖さがある。

 

クリスチャン生贄にされたじゃない、

外の遺伝子をこうして、いとも容易く用が済んだら命を奪うのって

そこの住人たち、もよその人の子供はそうして父なし子母なし子で生まれた時からそうなのだろうなと思ったり。

命軽っ。

ここでは神は人命よりも尊いのだ。

というか自らと集団存続のための行いでもあるのだけれど。

 

 

また観たいかと言われればしばらくは

観なくて結構

より深い考察をしてみようという気は起こらない

お花いっぱいも、もうお腹いっぱい。

うっかり

牧歌的なものへの嫌悪感を植え付けられてしまった。

しばらくお花見たくないかも、というくらいにはダメージを受けた。

 

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先月中旬に義母が亡くなった。

怒涛のように葬儀まで終わって、

精神的にもようやく落ち着いてきた。

私よりも、義父、夫、義姉妹家族の方が

早くから冷静で落ち着いて着々と物事を済ませていく。

義理の姉のお葬式の取り仕切りは見事としか言いようがなく

6歳年上の義理の妹は熊本から何度も呼び寄せられて

遺品整理をこなす。

我が身を顧みて、実父母が亡くなった時にこんなふうにできるかなと

自信がない。

遺品整理となると嫁の出る幕ではないのが救いだ。

だって捨てて良いのか悪いのかなんてとんと分からない。

手の出せる領域ではないのだ。

 

実家の場合こんなふうにスムーズにことが運ばないだろうなと思う。

一つ一つの選択も難しいし、いちいち感傷的になって全然進まなさそう。

 

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追記(5/28)

形見に欲しいものは何もないけれど

ひとつだけもらえるなら欲しかったものがある。

お母さんの手の親指の爪だ。

爪の弱い母は、家事で爪がぼろぼろになるのを防ぐために

ピンクパープルのマニュキュアを塗っていた。

美味しいものを作り出す魔法の手

我慢強い信念の手

相手が喜ぶことを、何より大切にして、よく働く手。

尊敬と畏怖と憧れの象徴のような母だった。

 

 

 

 

伺った家が今までに現実で見た家の中でも凄まじかった。

どう凄まじかったかは、

あまり思い出したくない。

失礼なので、気にもとめないふうに表情にも出さず、

玄関で家主と少々会話しただけ、

あまりよく見ずそそくさと帰ったのだが

荷物はそこらへんにごちゃごちゃあり、

壁は黒カビが生え、たまたま目に入った左側の小さな窓には白いカビがふわふわ出来ていた。

玄関のたたきにはペットのウサギのフードが倒れた袋から散らばり転がったままだった。

不在の時にも外玄関の有り様も恐ろしいものがあり、

相当忙しいのかもなんて思ってはいたのだが中も恐ろしいものであった。

 

そんなことはあえて書くつもりもなかったんだけど

先日の用件では自治会で集めたお金を会計であるそのお宅まで持っていったのだ。

私は持っていったが、相手からの受領証というものを作っていないしもらっていない。

もし、相手が預かっていないとなった場合、厄介だ。

そして集めきらなかったお金をいただけたので、また同じように持っていかねばならない。

 

こんなに思う必要はないのだが

家が汚いと、無意識にこんなふうに自分が思うんだと知って、

少々驚いた。

その人の悪意を疑うんじゃなくて、失くしそう、忘れそう、、。

 

私はそんなに綺麗にしてるわけではないので

人のことなんておこがましい、家なんて他人なんてどうでもよくてと

いう感じ。

の私が、無意識にそう思うのだ。

 

やっぱりある程度の綺麗さ清潔さ整然さは信用を得るためには必要なのだなぁと確認でき、客観的に感じることが出来た。

 

一定のこれ以上汚いと嫌だな気持ち悪いな

という基準は人それぞれあって

綺麗好きの基準と適当な人の基準では許容度が遥かに違い、

多分このおうちの場合、許容度がとても高いのだろう。

 

しかしとても綺麗にしている家だからといって、人格が良いのとはまた違う。

そこは全く別物だ。

ので、もっと張り切って綺麗にしようとは

あまり思わないんだな。

なんとなくちょうど良い感じを保ちたい。

だけど。

気は引き締めて許容度を上げないようにする努力は必要かもしれない。