痛みを体験する | 「薬」を持たない生活。

「薬」を持たない生活。

自宅に生えている雑草が美味しい♪

 

この世の現実は現象である、と言われる

あら、現象ってなんのことかしら?

私もよくわかっていない。笑。わかりそうでわからないような

 

これまで、ずっと身体の症状に悩まされ苦しんできた

最近になって、我慢ではなく、耐えられるようになった

我慢と耐えることの違い。私にとって希望があるかどうかの違いだけ

 

どんなに苦しくてもその先には、希望がある、と信じている

暗くて長いトンネルから抜け出すことが出来なく、ずっともがいていた

気づいたら、あちこちの症状が回復し始めた

 

それを回復と言わずなんというのだろう

耳鳴りに囚われると、生きた心地がしないです

感情そのものを揺さぶり、そして自死をする人もいます

 

それくらいつらくてしんどいのです。耳鳴りそのものがストレス

そして音さえも遮ります。「意識を持っていかれないように」

と言われても実際にはかなり困難です。耐えることにも限界があります

 

深呼吸をしても大声で叫んでも、耳鳴りは治まりません

そんな中、昼寝をすると少しだけ状況が変化します

時には昼寝をしても変わらないこともあります

 

ひどい耳鳴りがしても眠れるのです

精神的、肉体的にもつらい状況の中…

脳を助けてくれたのは薬ではなく、塩(精製塩以外のいいお塩)だった

 

 

 

 

 

 

 

 

少しずつ準備をしています。あとはぼろきれを探して試し縫い

簡単なものを作るのが苦手。これが私にもよくわからない。苦笑

 

マスクの型紙なんぞなくても自分で作れる

と言いながら前準備が長く、適当な布を探している

この様子だと1か月はかかる…

 

でもこの様子を楽しむことが好き

きのうも調味料を作ることから考え始め、犬の散歩を終え

すぐに作り始めた。材料はいつものように買わなくてもあるっ。笑

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ことの現象は幻のように過ぎ去っていく

私も時には試されているのか?と勘違いすることもあるが

実際にはすべてがそのようなものだと感じる

 

今まであった憎しみ、悲しみは走馬灯のように忘れかけている

持たなくてもよい感情をずっと抱き続けていた

自分にとって要らない感情でもある

 

耳鳴りはそれらの感情を吐き出しているのではないか

そう思いながら生きてきた

確かに医学的にはちゃんとした病名、症状はある

それも間違いではないと思う

 

でも、大半は、人の感情から細胞が変わり、症状として出ている

それを無視して、医学の助けを借りると自分の感情が

何もなかったかのように捨て去られる

 

そうではないんだよ、と伝えたい。私の身体は私が変えている

そのことを忘れないでほしい、と身体が痛みとして伝えている

現実は苦しいけれど、それがなくなれば、ただの体験として終える

 

命がなくなれば、それもおかしな話と思われるが、身体を自分を

癒すことが症状を消し去ってくれるものだと思う

現実と妄想と幻想といろいろあると思うが、

もしかしたら、この世も現実ではないのかもしれない

 

だとしても、自分を楽しませる時間は少ない

そして若い、という時間も少ない

でも気持ち、意識は変わらないのだから、もっともっと

自分を楽しませてあげようと思う

 

片付け、掃除は私の永遠のテーマ

元の自分に戻れなくても、なんとか生きている

こう見えて、きれい好き、完璧主義、とも言われていた

今はだらしない自分も大好き~

 

 

今日の体重、38.9㎏。快便。夜間尿1回

AM10時半から1時間半眠る。PM8時には就寝

あくびが出て、眠くてしょうがなかった

AM12時に目が覚めた

以降、眠ったのかそうでないのかよくわからない

 

今日も雨が降るんだな、と感じた

目の症状はアレルギーもあるかもしれない。ドライアイかもしれない

なんでもいいんだ。そのままにしておけば、症状は消える

そして少しだけ、塩の助けを借りる

 

それで生きながらえている

あ、生命力の高いグアバ、野生肉、野草茶の力も借りている

少しずつ少しずつ摂っている。だから身体の回復もゆっくり

 

脚の湿疹も治まった。痒みもない。今度はどうだろうか?