病気の原因がわからない時は、さまざまな憶測が飛び交う。脳(心)の病気は、現代でも解明途上にあり、今もさまざまな病気の憶測が飛び交う。
 
新聞では心の病気に関する書籍広告が溢れており、売れれば良いの無責任な情報に人々はふりまわされてもいる。
 
今は、心の病気を扱う職種が、さまざまに多様化している。誰でも治療を試みてみることができるし、心の治療には、これを勉強しなければならないというものも無い。
 
昔は、病気の専門職は医者しかいなかった。精神分析学も、フロイド、ユングも医者であった。しかし、医学では解明できない心のトラブルを学ぶためのツールとして、心理学は哲学などと比較されながら進んできた。現代の心理学も、その流れの中にある。
 
しかし、心理学の歴史は、人の心の研究の困難さと混乱を、そのままひきずっているようだ。
 
今、ブログで紹介している河合隼雄著「昔話の深層」は、人の心の普遍的に存在するものは何か?それをどう分析して、心理療法に生かすか?について書かれているようだ。
 
フロイドやユングの活躍した時代には、医学が科学として進み始めたものの、人の心(脳)の働き方についてはまったくわからず、そのジレンマの中で、当時の教養人の知性が、ぶつかりあった時代であった。
 
そのころの多くの学者がそうであったように、現在残っているフロイドやユングの肖像は、威厳に満ちている。当事の医者は、今とは違い、特別の人であった。医者にかかるということは、めったにないことであったろう。
 
当時の医者は、気難しい表情、長いひげをたくわえ、カリスマ的な雰囲気を漂わせていた。
患者たちは、医者の前で萎縮したことであろう。
 
19世紀末にシャルコーという神経学者は、経細胞を染めてその形態を観察して、マリーチャルコー病を発見した。これは今でも使われる病名で、彼が発見した解剖的な変化が実際の病気を起こすとする事実は、現代まで揺るぐことはなかった。
 
しかし、多くの病気とその原因論は、否定と上書きをくりかえしているのである。
 
シャルコーは、ヒステリーが器質的でなく、機能的であることを指摘した人であるという。ヒステリー症状なら、倒れても起き上がることが可能であり、心のあり方でおきてくる症状である。
 
医学では、器質的、機能的という言葉が良く使われる。
まず、機能的という意味は、脳が構造的に壊れて病気になるのでなく、脳は回復しうる。脳の働きが、一時的にうまく進まない状態を言う、一方、器質的とは、脳の具体的な破壊の結果として起きる症状を意味する。

切れるはさみなのに、うまく使えていないために切れないのが機能的障害で、切れないはさみで切れないでいるのが器質的障害である、と言えば、わかりやすいか?
 
フロイドが活躍した時代には、ヒステリー症状の治療法として催眠療法がはやっていた。
もちろん、今ではそんな治療は、まやかしである。今の医師が、患者に催眠術をかけますよ!と言っても、医者の催眠術にかかる人はほとんどいない。
そして、催眠術をかけるような医者に行くな!との評判はすぐにたつ。
 
しかし、当事は、客観的事実が無かった。催眠療法は機能した。しかし、全員にではないし、その過程でフロイドは、多くの疑問を感じていた。
病気の原因究明をめざして、たくさんの学者たちの想像が入り乱れた。
 
医学者は患者と接して、あれこれと試行錯誤をし、違う次の患者の治療を通じて、別の試行錯誤の作業を繰り返した。こうだと思ったら、別の患者ではこうではなかったとか、いややっぱりこうだろうとか・・・。そうした結果、やがて、医者はしだいに独断的になっていった。
 
今でもそうした傾向はあり、先生と呼ばれる人が陥りやすい危険である。だから、自称専門医、自称名医にはかかってはいけない。
 
権威あるものは、権威の中におぼれていくというのは、人間の本質なのだろう。そうした学者たちの離合集散の歴史が、そのまま心理学の歴史となっている。
 
フロイドやユングの考え方は、その弟子によって、ある時は発展しながら強められ、ある時は批判されて潰され、さまざまな派閥に別れて現在に至っている。
 
センセーショナルな心理学者が出てきて、その理論が人気となり、学会をリードしていく。そして、そのフォロワーが増えていくにつれ、今度はフォロワーから厳しい批判を浴びるようになる。
 
心理学には、科学としての絶対的な真実がなく、正しいのか正しくないのかの判断するものさし(科学)を欠いている。しかし、人々の共感を呼ぶものは残っていく。それが、ユングのアニマ・アニムスではないかと思う。
 
心理学が人の心を知るためのものである限り、時代と共に変化し、常に流動的であるのはしかたないことである。
 
もっとも、現在支持されている心理学は、もう少し実践的であり、かつ、科学としての客観性や正確性も求めている。実験心理学などの方向性もある。
 
いづれにしろ、どのような目的で、心理学を学ぶのか?が大事だろう。そして、学んだ結果、限界を感じて、別の学問に移ることもあるだろう。
 
実際に悩める人を救うための手段として心理学を学ぶのか?それとも社会背景をふまえた歴史学として学ぶのか、医学との相違点を学ぶのか?などなど、心理学には、いろいろな切り口がある。
 
心理学を学ぶ過程で、自我、超自我、意識、無意識の言葉が登場する。こうした概念を心理療法に生かすためには、現在の人々の心と、当事の学者が活躍していた時代の人々の心を対比する作業が必要であろう。
 
しかし、今、心理カウンセラーをめざす人が心理学を学ぶとき、社会的背景や医学的背景、さらに両者の関連を学ぶ事は,今や必須であると思う。薬と医学の知識は欠かせない。
 
ある意味では、精神科医のもとで、一緒に心理療法をしている人はラッキーかもしれない。しかし、一方で、精神科医のやり方について心理学専攻者には受け入れられないと感じることもあるかもしれない。
 
これまでの歴史は、医学と心理学は、対立を繰り返してきている。

ノイローゼ、うつ、不安神経症などは、心理療法のターゲットである。心理療法は、クライアントの心がなんらか良い方向へと変化していくことをめざす。
 
心理療法は、才能を要することだと思う。あるクライアントには、機能する治療者が、他のクライアントに機能できなかったりする。治療者に対してのクライアントの評価は、クライアント自身の能力の範囲でしかできない。
類は類を呼びぶものであり、治療者に知識や才能があっても機能しないことがある。
 
治療者にとっては、治療に得意なクライアント、得意でないクライアントということになるのかもしれない。
 
カウンセリング治療の手段として、アニマ、アニムスの概念は、利用範囲が広いと思う。誰の心にもアニマ、アニムスはひそむものである。

悩めるクライアントに対し、アニマ、アニムス論は、心を客観的に考える方向に導きやすいと思う。
 
一つの価値感にとらわれて消耗する人などにも、ユングの提唱したアニマ、アニムスは、新たな心の切り替えのきっかけをつくるかもしれない。
 
たとえば、新聞の悩み相談欄などを見ると、過去のだれだれが憎くてたまらないとか、夫の女性関係に対する怒りが抑えられないとかの強迫観念で悩む女性からの投稿がある。
 
悪い方向へ向かうだけの心の高ぶりは、心の消耗を招く。投稿者本人にも問題があるはずだが、そうしたことはすっとんでしまって、相手に対する怒りで苦しんでいる。
 
クライアント自身から心の切り替えができないと、この苦しい状況から脱せない。
 
アニス、アニムス論を考えながら、治療者と向き合うことで、悩める人は、人や性のあり方を見直し、自らの問題点にも目を向けるようになれるかもしれない。
 
治療者にとっても、アニマ、アニムス論は、過去の治療経験を生かせて、目の前の人の悩みを受け止めやすくなるかもしれない。

自分を客観的にみつめるツールとしても、アニマ、アニムス論は大いに機能するだろう。
 
そうした意味で、ユングやフロイドの功績は大きい。
 
 
河合隼雄の解説するアニマについて、もう少し、女性の立場に立って書いてみましょう。
 
アニマは、男性のもつ女性の理想像であるが、逆に、女性のもつ男性理想像は、アニムスと言うらしい。
 
ユング、フロイドは男性であり、現在紹介している河合隼雄も、又、男性である。男性たちは、アニマについては書きやすいだろうが、アニムスについては、想像で書く、あるいは文献的に考察するしかないのだろう。
 
昔話自体も、男性的な要素が強い。それは女性の美しさが、ことのほかに強調されている点においてである。
 
河合もその著書「昔話の深層」の中で、女性の美しさを何度も強調している。女性の美しさは、誰をも納得させる強い説得力を持つ。昔話に登場する美しい主人公は、多くが姫であるが、姫でない場合でも、必ず若い娘でなければならない。

(赤字が河合の文章)
とにかく、美人であるということは本人にとっても、周囲の人間にとっても、大変なことである。美人であるということで人が集まってくる。美貌というものを自分と同一視できる人は自分自身に価値があるので、人が集まってくるのだと思う。勢い、その女性は傲慢にならざるを得ない。
 
他方、簡単に(美人であると)同一視できない女性は、自分自身の価値と美貌を分離して考える。自分の周囲に集まってきる人は、「自分を価値ある人間と思ってくるのではなく、自分の外面をあてにしている」と思い始めると、その人はむしろ自分の美しさをのろいたくさえなってくる。
 
この文章は、河合が複数の美しい人に接して得た感想なのだろう。
 
女性には、「美しい!」とほめられることで喜ぶ人と、喜ばない人がいるとの河合自身の経験からくるのかもしれない。
 
今でこそ、「美しいですね!」はセクハラになってしまう。本当に美しい女優さんが、テレビでアップで映り、周りの人たちが、「美しいですねえ・・」と言われても、正直にうれしそうな顔をする女優さんは少ない。
 
こうしたときの女優の頭は、さまざまの思いでいるだろう。
河合の想像するように「顔より、私の演技を見て!」とも考えてもいるだろう。
 
しかし、それだけでなく、彼女たちは、「美しく写っていなければならない」の重いプレッシャーを感じるがために、素直に喜べない原因があるのではないか?と思う。
 
美しい人は、その衰えに敏感だ。今の美しさを維持するための不安や、苦労の重圧を感じたりもするだろう。
 
そして、美しさの中で「あと10年たったらどうなるのだ」とか、「素顔でも美しいだろうか?」などと、いろいろな悩みが湧き上がる。
 
「歳をとったら見られたくない!」との女性の心境は、原節子に代表される。
 
美しい女性ほど、美は永続的でなく、絶対的なものでもないことに気づきやすいと思う。美しさを仕事に使っている人なら、なおさらであろう。
 
昔話は、そのストリーに登場する若い女性が押しなべて美人であるのと対比するように、物語の老女は醜い。
わし鼻は、若いときに鼻の高かった西洋女性に起きる加齢現象の象徴である。それが醜いとされる。西洋では、わし鼻は、悪いこと、不吉を象徴させるものなのである。
 
幸い、鼻の低い日本老女ではわし鼻現象は起きないものの、口元の梅干じわ、出っ歯、腰曲がりが容赦なく描かれる。
 
 
かつての日本の子どもたちでも、白雪姫に登場する魔女を見て、わし鼻は悪の象徴であることを知っていた。
しかし、それが普通の女性にもおきるしかたない老化現象であるとの認識は日本には無かった。
 
物語に登場する老女は、わし鼻だけでなく、歯もぬけている、腰もまがっている、手も節くれだっている。そうした女性の誰にもおきる加齢現象が、物語の醜いものの象徴となることは、女性の視点からすると、やりきれない気がする。
 
こうした女性の視点で、ものを考える女性心理学が、もっと論じられても良いと思う。男性心理学者が活躍する時代では、こうした女性の視点に興味が向かないし、無視してしまうものだろう。
 
しかし、女性心理学者が増えた現状においては、女性心理の悩みにしっかり向き合えているのであろうか?加齢を防ぐとするエゼ情報への批判が語られているだろうか?
 
男性側だけがあれこれ女性の心を想像しても、所詮、彼らにはできない。しかし、彼らは、女性の思いを受け止めることはできる。
 
これは、現状における女性の病気への理解不足についても、まさに同様のことが言えるのである。
 
河合心理学で語られるアニムスは、男性が想像する世界におけるアニムスということになる。
女性に中にひそむ男性的な理想については、男性は一定の理解を示すものの、御しがたいものであると、河合も言っている。
 
さらに、河合はユングの記載を引用して書いている。
 
ユングは、アニムスは女性の無意識の中で次第に力を持ち始め、意見を主張させると言っている。女性は「・・・すべきである」「・・・でなければならない」と考え始める。それは一見正しいのだが、現状にそぐわない類のものであることが多い。
 
河合はアニムスを姫の言葉として、以下のように語らせている。赤字は引用

トーランドット姫は、宣言する。「私は自由に生きたいだけなのです。私は自由に生きるために、自然は武器として私に独創的な頭の働きと鋭い知力を与えてくれました。・・・私は侮辱された同性のうらみを、威張っている男性に向かって晴らしたい。」
 
アニマ、アニムスが、男女でお互いに受け入れられない側面を持つために、それをストレートには外に出さず、その人の中でコントロールすることになる。
 
われわれ人間は社会から期待されている仮面をつけ生活をしなければならない。
男は男らしく、女は女らしく言われているような一般的な期待傾向が、それぞれの社会には存在している。
 
それに答えるペルソナ(仮面)をつけることによって、われわれは社会に中に自分自身の地位を占めている。男性の中の女性的な傾向は、ペルソナの中に取り入れられないので、アニマとして無意識の中に潜んでいる。これは女性の場合も同様である。
 
ここで、ペルソナが強くなりすぎて、アニマを抑圧している人は、社会にはうまく適応していたとしても、自分の存在が危ういことを感じさせられるかもしれない。ペルソナとアニマ、アニムスとの相克は、人間が自己発現の過程で深刻に体験させられる葛藤である。

昔の婦人は、仮面が重く、容易にはずすことができなかった。その結果、仮面の中にどっぷりと浸り、賢い妻を演じたりができた。昔の女性は、妻として、自らの価値観を変ようと心の作業をしたと思われる。
 
夫に愛人ができて、子どもが生まれても、その子をわが子と分け隔てなく育てるという生き方をめざすとか、愛人と一緒に同居して仲良く暮らすとかの生き方である。
 
しかし、女性の視点からすると、こうした女性の生き方が理解できるのは、夫の身分が高い、何からの身分的称号がある、お金持ちで周りからも尊敬されている夫の場合ではないかと思う。
 
こうした境遇では、妻なる女性は、賢い生き方をすればそれが評価され、夫の身分を享受できた。
そして、まわりの上流婦人たちも同様な家庭環境にあるため、夫の愛人を我慢したり、受け入れたりすることができたのではないかと想像する。
 
女性が、自身の人生を自分自身で選び取ろうと飛び出し、失敗してその身が破滅してしまうストリーも数多い。アンナカレーニナの悲劇などで代表されるだろう。
 
有吉佐和子の名作の紀ノ川でも、夫、子どものためだけに生きてきた女性主人公は、最後に、その膨大な財産を自分の好きなように処分してしまう。女流作家ならではの結末であるような気がする。
  
男性によるアニムスの解釈では、女性の独立精神についての考察は不十分である。というより扱いが難しいのだと思う。
 
河合によれば、日本の男性は、まだまだ、女性のアニムス部分をしっかり受け止める準備ができていないと書いてくれているので、今後は、心ある男性のアニムス意識は改善しつつあるのだろう。
  
この点については、現時点において、男性の理解が進むのを待つだけでなく、平行して、女性自身が自らの心を説明していく必要がある。女性自身が語るアニムスが、もっと積極的に論じられることで、男性の女性への理解は進む。
 
しかしながら、河合は、女性が、女性自身の中のアニムスに気づくことなく人生を送れる人は幸せであろうとも、皮肉的に書いている。
男性が女性に安定した結婚生活を与えてくれて、波乱万丈なく、男性の愛と庇護に満足できる人生を送ると、考え方が偏るということなのかもしれない。
 
アニムスが無い人生も、女性にとって問題があるのである。
 
11月4日の学とみ子のブログに書いた、気遣いを得意とする老妻からの新聞投稿のストリーを思い出してほしい。http://blogs.yahoo.co.jp/solid_1069/11395635.html
 
彼女は、人のため、美術鑑賞のため、音のでるヒールは履かないと、自らの品行方正を新聞に書いている。
しかし、新聞の投稿文を読んだ人は、老女のハイヒールへのジェラシーとみなす。世間には、安住した老人に冷たく、皮肉的に見る人がいる。
 
河合も、女性の望ましくない生き様のひとつのかたちとして、「既成の道徳の鎧によって、生きた心の動きを被っている人」との表現を使っている。こうした人では、何か破綻がおきると、自分自身で対処することが難しいのだろう。アニムスが欠けているからである。
 
女性にとってのアニムスは、自分の境遇を第三者的(男性的に)にみつめる手段でもあると思う。



 
河合の「昔話の深層」で紹介されている理想的女性像アニマについて、もう少し、書いていきたいと思う。
 
ユングは、男性の夢の中に登場する女性像の持つ深い意義について気づき、それを心、あるいは魂の像であると考えて、それらの像の原型となるものを仮定し、アニマと名づけた。
 
アニマは、男性を未知の世界へと誘う。しかし、それは危険な道である。男性が決断し、なにかと成し遂げようとする時、彼女は迷いの言葉をささやく存在となっている。
 
河合は、ロシアの昔話で、川向こうにいる美女の誘いにのって、川にとびこんだ猟師がおぼれ死ぬ話を引用している。私は、ドイツのローレライの歌のストリーなどを思い出す。こうした話は、世界中で物語のネタになっている。
 
河合は、日本の昔話に見るその類似性として、かぐや姫をあげている。かぐや姫は、求婚者の王子達たちにもろもろの難題をあびせ、彼らに命がけの思いをさせたあげくに、かぐや姫は天にのぼって消えてしまう。
 
東西を問わず、アニマへの接近は危険を伴う。あきらめられずアニマへの執着を続ければ、破滅にも向かう。
 
しかし、河合によれば、西洋の昔話の典型は、それでも最後は、姫と結ばれる結果になることが多いと言う。アニマへの求愛の過程で、求婚者は、姫の父より酷な難題を言い渡される。父親像は、子どもの成長のためには厳しい試練を課す。それを克服した男性のみに、姫がわたされるという結末にもっていく。
 
だから、男性は努力すべきであり、そうすれば、最後は、姫と結婚できて、めでたしめでたしの幸せが来るとされる。
 
河合によれば、かぐや姫が天にのぼってしまうストリーの作られ方は、日本独特のものと思われ、日本では、「もののあわれ」の感情に美を感じる国民性があるためではないかという。
 
ユングらの精神分析学に出てくるアニマは、理想的な女性像だけでなく、男性の心にある女性的な思考傾向を象徴しているのではないか?と河合は分析している。女性的な思考傾向とは、漠然としたもの、非合理的なもの、勘への頼り、不条理で筋の立たないものなどということらしい。

つまり、理論的でなく感情的なものは、女性的なものということなのだ。
 
現在の女性たちも、多かれ少なかれ、男性からこんな視点で見られていることがあることを、忘れないでいた方が損はない。つまり、女性が意思を通したいと思うときは、感情論ではないところを強調して、相手の納得をめざす努力が良いように思う。
 
最近の若い男性の女性感は、かなりばらついてきたと思うが、育った家庭環境の影響が大きいだろう。
 
アニマが危険であるとの警告は、感情的な世界に男性がはまってしまうと危険であるとするものである。
 
男性が理性を失い、感情的になってしまうと、将来に対する展望を立てにくく、地味な努力を続けることなく破滅に向かう迷路にはまることとなる。迷路は、無意識から意識への流れていた理性が逆流して、意識から無意識に流れ去ってしまう状況らしい。これが、心理学での心の病気の説明経路だ。
 
男性は、激しく怒ったりして感情的になるが、それは女性のそれとは違い、計算されているような気がする。周囲に対して、男性は、自らの意思をより明確にする手段として怒りを利用し、強い言い方をするように思う。
 
相手に対し、強く諭したり、自らの意思を曲げる気持ちのないことを相手に伝えるためである。
強い感情をあらわにする男性を前に、周囲の人々は言いなりになる。
 
一方、女性は、後の顛末を気にすることなく、意図を欠いたまま、怒りを爆発させてしまい、結局女性自身の立場を悪くするようなことになってしまう。つまり、周囲の信頼を失い、無駄で損な怒りである。
 
怒った結果、女性は周囲に対して立場が悪くなるのに対し、一方、男性が怒れば、立場が悪くならないだけでなく、その権限の獲得につながることになる。
 
権威を確立し、維持するするために、男性支配者が権力の誇示に苦労してきた経過が、歴史をつくってきた。
 
男性にとってアルマは、危険となぞをはらんだ存在である。男性にとって女性はなぞであり、女性にとって男性はなぞである。それぞれを理解しおうとやっきになれば、それぞれの影が活躍を始める。こうした影が活躍するがために、男女関係がどろどろになる経過を描いた昔話も多くある。
 
男女関係が険悪となり、影と本音がもつれあって、お互いが相手を非難するようになると、これ以上の悪人はいないかのようなお互いに悪態をつくようになる。
 
現代でそれをみるなら、有名人男女の恋愛結婚スキャンダルであり、マスコミの格好のえじきになっているようである。

 
意識、無意識、自我、超自我という言葉は、心理学では重要な用語だ。心的エネルギーが消耗する病気、たとえばうつ病などは、文系心理学の表現をかりると、「普段、健康な時には、無意識から意識に流れていた心の流れが逆流して、意識から無意識に流れるようになる」と表現されているようである。
 
これは、医系の人間にとって、文学的表現と感じる。しかし、治療者(カウンンセラー)が、落ち込んだ人を前にした時に感じる思いを文章にしたものであろう。いづれにしろ、医系・文系に共通している現象は、「心的エネルギーが足りない」とした印象である。
 
医系の人には、脳内物質とかの言葉を出したほうが、理解しやすいのだが、それは、細胞や樹状突起や脳の機能がすでに頭に入っているにすぎないからだろう。
 
細胞になじみがなければ、文学的表現の方が、頭に病的状態をイメージできるという人たちも多いと思う。いすれにしろ、「足りない状態」の人を、「足りた状態」に持っていくことが、臨床科学を利用した治療である。医系、文系を問わず、治療として機能するかどうかが、勝負である。
 
そもそも、学問は、普遍的な事実を見出すもので、学ぶ人を集める必要がある。学生が集めらなければ、教授はいらない。
 
教授たる人は、一人の心理構造を、他者の心理構造にも応用させる技術を持たなければならない。共通の事実をみつけなければ、治療には応用できない。
 
「この人がこういう状態に陥ったのは、こういう理由です」にとどまらず、他の人の病気の治療にも応用できることが必要だ。つまり、人の心の共通現象をみつけていかなければならない。
 
そうした意味で、弟子を多くかかえる先生は、その立場を保つために、普遍的でかつ新しい事実を見つけて、弟子たちに示さなければならない。それがなければ、弟子はどんどん離反していく。
 
フロイドもユングも、精神分析の専門家としての立場を維持するために、苦しい努力を要したであろう。彼らは医者であり、科学者でもなければならなかった。
 
当時は、解剖学などが進歩し始め、臨床医たちも、病気の原因を証拠立てて論じることに、夢中になっていた。しかし、人の心と、その病気を解明するために必要な脳細胞の機能の知識が無かった!いくら顕微鏡で、脳細胞の形をながめても、実際の働きがわからなかったのである。
 
当事の医学者たちは、考えても答えのない多くの疑問に悩まされていただろう。フロイドの理論が、時代とともに大きく変わっていくのも、わからないものを相手にしながら、試行錯誤を繰り返した結果と思われる。彼らは大学の教授として、超専門家でいなければならなかった。
 
病気の原因はわからなくても、病める病人は多くいて、病人たちは、医学部教授に最新の治療や答えを熱望した。
精神を分析できる人との評価のあったフロイドやユングたちは、病気の根源となる医学的事実を発見しようとした。しかし、推定に頼る作業は困難であったろう。
 
フロイドもユングも、後の時代の医師たちから一定の評価は得たものの、酷評もあった。フロイドは独断と偏見の塊とみなされ、ユングはオカルトと評されるようになった。
 
名声もありお弟子さんも多くかかえる立場の医師であれば、信念は強くなる。加齢すれば悪い意味での頑固さが強くなる。こうした傾向は、しかるべき立場にいた男性に多く見られ、いつの時代にもこうした人はいて、ご本人は気づくことができない・・・・ 。
 
さて、ユングがオカルトっぽくなっていく経過を、河合隼雄著「昔話の深層」にさがしみよう。(赤字が引用部分)
 
 
昔話の連絡役として登場するのは、蟹とか蛙とかである。これらの動物の特徴は、水陸共用であることのようだ。つまり、意識と無意識をつなぐ連絡係りの役割が示唆されていると言う。無意識の世界から、意識の世界に出てくるものとされているそうだ。
 
蛙は、冷血動物であるが、手が人間の手に似ているために、ユングによると、無意識的な衝動で、意識化されるはっきりした傾向をそなえるものだという。

ユングは、男性の夢の中に登場する女性像の持つ深い意義について気づき、それを心、あるいは魂の像であると考えて、それらの像の原型となるものを仮定し、アニマと名づけた。ユングの言う厳密な意味でのアニマは、無意識内に深く存在する元型として、われわれは見ることができない。
 
一人の男性が生きていくためには、男性としてふさわしい役割を身につけていかなければならない。彼は負けたからといってすぐに泣いたり、他人をうらやましがったりしてはならない。彼は自分の力で積極的に行動していかなければならない・・・・
 
実際、多くの男性は女性によって創造的な活動への刺激を与えられている。アニマは、男性を未知の世界へと誘う。しかし、それは危険な道である。内界に存在する女性像が優位になると、男性はしばしば失脚する。男性が決断し、断行しようとする時、彼女は迷いの言葉をささやく。
 

うーーん、そうなんですか?!
 
このあたりの記載は、現代社会においても、女性が男性を理解するための大事な資料とすることができる。男性は、何か、「人生に足跡を残したい」と願う傾向が強く、そのために努力をするし、苦難にも耐えようとする。
 
男性は、理想を追求するために行動し、いくつもの顔も持つ。失恋は、単に女性を失うことでなく、その女性から選ばれなかった自分自身が情けないと感じて、そこが落ち込む原因である。
 
男性自身でつくりあげた女性像は、目の前の女性とは違っている。しかし、そのギャップを、目の前の女性に感じさせないような計算された優れた頭を持っている。女性にとって、男性が言うことが違うように感じられても、どれも男性の本音でもある。
 
精神分析学という言葉は、何かすばらしい学問領域のような雰囲気をかもしだすが、実態は何であろうか?実際に脳(心)分析の難しさと、脳科学の進歩を前に、精神分析学は、最近はあまり使われなくなり、名前倒れになってしまった感がある。
 
精神分析学を学びたいという希望する若い学生はいるだろうが、先生は、学生に何を学ばせればよいのか?解明途上で、実に混沌とした領域と感じる。精神分析は、人の心の共通性を解明しようと、学問的努力をしたが、結局は個々の人での問題として終わるので、学術的にはならないのではないか?
 
神経内科、精神医学で扱う病気のうち、脳の実質の障害が証明でき、進行性でほとんど回復しにくいものがある。しかし、多くの脳の病気は、数年単位の時間経過で、変動する動的な経過をとり、その予後はさまざまである。脳は経験をつんで賢くなる一方で、壊れていってもしまう。
 
人が心の病気になる時、その原因になるような出来事があることが多いが、病気の真の原因に患者本人が気づいていても、あえて隠している場合がある。一方で、本人が全く気づいていないことなどもある。心の病気になることで、救われていることさえある。そうした時に機能させるのが、精神分析かもしれないが、複雑すぎて、機能する実態はないのでは?と感じる。
 
 
現代においては、心理学でも、医学でも、どのようなアプローチであっても、実学となれば、悩める人に対して、治療の成果をめざすものである。人を対象とする治療者は、悩める人に共感し、希望を持たせることを成果とする。

ヤフー知恵袋に載る「心理学とは何か?」の素朴な質問の回答をみると、心理学には、教育系と医学系とのアプローチがあるという。

心の病の治療に、教育系の心理学のアプローチとはいかなるものかに、私は興味を引かれる。
 
実際に悩める人への治療として心理学を応用する時、心理学をどのように生かすのか?現実の心理カウンセラーは、病気の人に対し機能しなければならず、ハードルが高く、才能を要する仕事だ。ある精神科医が、カウンセラーは美人が多いとあった。確かに、私に知っている女性カウンセラーも、女優の卵とのことで美しかった。やはり、男女を問わず、美しいことは有利かもしれない。
 
精神分析というと、ユングやフロイドが有名で、彼らのことをこのブログにも書いたが、治療法としての参考にするには、時代が違ってしまったようである。
 
時代が違えば、心の病気の質も変わってくる。女性の社会的立場や価値観が違いすぎてしまったので、この時代の治療を学んでも、実学として現代に応用するのは難しい。
 
フロイドは、治療用テクニックとして、性の問題を持ち出して、女性たちの心の病気を解きほぐす効果を狙っていた(私見)。フロイドの多くの患者が、上流女性だったらしいが、フロイドが女性患者と性の話しをすることで、彼女たちは「もう、このドクター(フロイド)には何もしゃべってもかまわない!」という心理になったのだろう。
 
そうなると、心のトラブルの治療効果が出そうな気がする。女性はいつの時代でも、先生のような存在を求めているような気がする。

日本の心理学も、医学と同様に、世界の著名人の業績を学ぶことから始まっていると思う。日本人研究者が留学できるようになった時代は、ユングやフロイドが活躍した時代より後の、その直系のお弟子さんが教官となっていた時代であったようだ。
 
ユング研究と言えば京都大学の河合隼雄と言われているが、彼は心理カウンセラーとしても、悩める人の治療に直接あたっていた。箱庭療法や臨床心理士の活躍の道を開いた学者である。彼の残していた書物に、一般人への読み物向けとして、「昔話の深層」という本がある。
 
 
文科系の心理学と、医学系の精神医学を対比させてみると、何らかの治療的な示唆がでてこないだろうか?今回は、河合隼雄の著書を参考に、考えてみた。
 
今の医学的解釈では、心の安定を失った人の病態の説明として、脳内伝達物質の機能失調で説明している。
治療に使われる薬も、これらの脳内伝達物質を調整させることをターゲットにしている。
 
環境に適応できない状況に陥った人は、過度な不安・不満や、不眠が起こり、多様で多彩に機能するはずの脳内伝達物質が消費され、その結果として脳内伝達物質が枯渇(無くなる事)してしまう。一方で、過剰になる脳内伝達物質もある。こうなると、脳内伝達物質で機能している脳細胞自体が、再生に向けたエネルギーを生み出せなくなる。
 
河合心理学ではどのような解釈を行うのか?追い詰められた心の状態は、河合はどのように表現しているのか?脳内伝達物質枯渇とよばれる状態は、河合心理学ではどのような解釈になるのか?
 
河合心理学では、意識、無意識という言葉が持ち出されている。そして、悩める人自身は苦しみながらも葛藤し、やがてその成果として、その人自身の中で、乗り越える心の再生化がおきてくるであろうと期待している。そうした経過を通らないものは、例外的な脳の病気であろうとしている。
 
河合は次のように書いている。
 
今までの最高の原理はくずされ、新しいものが導入されることによってのみ、真の更新が行われることが明らかなのである。
 
われわれ心理療法家のもとに訪れてくる多くの人は、これを同じ状態にある。それまでその人が信条としてきたことがくずされ、どのように生きてよいのかわからなくなる。
 
そこで、われわれ治療者に相談して、何かよい生き方をおしえてもらおうと来談する。これに対し、われわれのできることは「無為」である。そしてこのことが最上の方法なのである。
 
自分で解決を見出せず、治療者も頼りにならぬと知り、まったくいきづまってしまったこの人は、退行現象を体験しはじめる。今まで、無意識のほうから意識のほうに流れて、心的エネルギーが、逆に意識のほうから無意識の方へと流れ始めるのである。
 
これは今まで意識が依存してきた規範にたよれなくなったので、それに対立するものが無意識内に形成され、この対立のために心的エネルギーの流れが乱されて、むしろ逆流を生じたのである。
 
心理療法家としては、このような退行現象に耐えていると、その頂点に達したと思われる頃、エネルギーの流れの反転が生じ、それは無意識内の心的内容を意識内へともたらし、そこに新しい創造的な生き方が開示されてくるのを見るのである。
 
最近、風邪や胃腸炎で受診した子どもに対して、薬をほしがらないおかあさんが増えてきている。
 
下痢や鼻水は、病原体を排除するためのものだからなどとする考え方が浸透してきたためであろう。
母親が、「咳や鼻水は、治すために必要ですよね!」と言ってくれると、医者はほっとする。薬は、そんなに効かないと思うからである。
 
日常の診療で、親のコメントに、時々、新鮮な感動を感じることがある。
 
先日は、インフルエンザのワクチン後に、局所の腫れが強く、発熱もしていた1歳時がいた。
 
これだから、ワクチンが恐いなあと、誰もが思う瞬間だが、母親は、「こんなことなら、インフルエンザにうつった方が良かった!」と言った。そして、このお子さんのご家族では、皆がそう言っているとこのとであった。
幸い、この子は、その後、特別のこともなく軽快した。
 
現実にかかってしまった病気で、子供どもに後遺症が残るより、ワクチン被害による後遺症が残る方が、親にとってはつらいものである。ワクチンなら、打たないという選択肢があったからである。打たなければ良かった!と、どんなに親は強く思うものあろうか!ワクチンの中止を訴える母親は、世界中にいて、ネットで中止キャンペーンを続けている。米国などで、教会活動を軸に活動をしていたりする。
 
薬を使わないという親の考え方は、良い傾向ではあるのだが、問題点もある。
 
欧米では、風邪の時に抗生剤を出さないとする医師教育も盛んだ。オーストラリアなどでは、国家的な政策として、抗生剤の使い過ぎを批判するキャンペーンが盛んである。そのためであろうが、マイコプラズマのマクロライド耐性率が、日本やアジアと比べて欧米は低い。
 
日本では、熱が出るとすぐ医師のところにくるが、これも世界的趨勢とは違う。
 
医師の立場からすると、早めに受診をしても、あまりやれることは無い。
早期発見、早期治療は、難しい。治療するには、見極めが大事である。
 
日本では、薬を飲んで病気を治すと思っている人が、まだまだいるとは思う。痛み止めも、鼻水止めも、基本的には不要である。
 
しかし、ここに落とし穴がある。現在の日本における診療の場では、風邪に混じって溶連菌感染症がとても多い。季節を問わず、かなりの人々に溶連菌感染症が起きている。溶連菌感染症は、抗生剤なしで様子を見ると、悪化する。
 
最近、立て続けに、耳鼻科で抗生剤を出さずに、様子をみていたお子さんが、体に発赤や発疹がでてきたしまって、小児科にきた。二人とも、溶連菌感染症であった。これなどは、耳鼻科で、早めに抗生剤が投与していれば、良かったケースである。
 
溶連菌感染症は、診断できると(結果が陽性だと)、感謝されることが多い。母親のコメントとして、「今日、こちらに来て良かったです。」と、言ってもらえる。
 
多くの風邪は、自宅でしばらく様子を見てよいものである。しかし、現実には、風邪であるとは、後にならないとわからない。自宅で様子を見ないで、受診した方がよい病気は多くないが、その数少ない病気の代表が、溶連菌感染症だろう。抗生剤が著効し、早く医者に来て良かったといえる。
 
溶連菌感染を早く見つけたいと思うものの、診断の決め手は無く、咽頭発赤と発熱があり、風邪との鑑別はできない。

風邪だと思って教科書通りに、抗生剤を投与せず、様子を見ていれば、発熱が続き、発赤の増強やイチゴ舌なども出てきて、溶連菌っぽくとなるとは思うが、それでも、似た病気は多い。ウイルスも細菌感染症も、子どもの生体反応は、共通なところも多い。
 
特に、溶連菌の診断は、初期のうちは難しい。元々、アレルギー性鼻炎があって、鼻汁を伴う子どもであれば、ますます風邪との鑑別はむずかしい。
 
「こんなに熱が高いのはおかしい!」と言うイライラした感じの女性がいた。彼女自身が、溶連菌が陽性であった。母親である彼女も、溶連菌陽性を聞いて、納得の表情であった。イライラも軽快したようであった。展望が見えれば、人は落ち着くものである。
 
早く熱を下げてくれ!と、イライラした感じの患者さんが時にいるが、多くの場合は、医者にそんな能力はない。
 
そうした訴えを聞くと、苦し紛れに、医師は、「熱は高いのより、長い方が、より問題です。」と言ってみたりする。
患者さんが「点滴をして、早く治してくれ!」というのも、困る。
 
誰かが、病気は薬で治るという信仰を、人々の間に作ってきてしまった。
 
風邪の時の抗生剤は、確かに不要であるとは思うが、実際の人の気管支では、ウイルス感染が起きると、細菌感染も続いて起きやすくなるも事実なのである。
 
中華レストランにおけるランチタイムもかなり過ぎて、大かたの昼食客はすでに帰った静かな昼下がりであった。
 
4人の年配者を前に、30歳位の若い女性が、やや興奮してしゃべっていた。この昼食グループの人たちは、専門家のタバコの講演を聞いた後のようであった。知識があるらしい若い女性が、同席している年配者にその講演内容について、説明しようとしていた。
 
彼女たちが聞いた講演は、妊婦とタバコに関する話題のようで、妊娠中のタバコの危険性についてであった。
 
若い女性の解説によると、タバコが危険な理由は、胎盤を容易に通ってしまうからであると言う。さらに若い彼女は、独自の解説を加えたいようで、胎盤というものは、めったなものは通らないようにつくられているが、それでもタバコは胎盤を通る程の危険なものであり、講演会の先生は、そこを強調したかったのだろうと説明した。
 
講演会場の聴衆から、妊婦でなければいいのか?と質問が出たらしく、若い女性は、その質問を、とんでもない事だと強い口調で非難した。「妊娠していても、いなくても、タバコを吸うのは危険なことです。胎盤ですら通過してしまうのですから、タバコの強い害が全身に廻ってしまうということなのです。とにかく、タバコはDNAを傷つけてしまうのですから・・・。」と、彼女は強調していた。
 
話を聞いている年配者たちは、そこそこの健康知識はある人たちのようで、若い女性の話しを聞き流すのでなく、あれこれとコメントをしていた。
 
年配者たちは、DNAが傷つくという意味のイメージがわかないようであり、もっと具体的にDNAの傷を理解したいようであった。そのためであろうが、サリドマイドと比べるとどうなのだろうか?との質問が出た。昔の人ならよく知っていたサリドマイド事件から、タバコのDNAの傷のイメージを膨らませたいと、年配者たちは思ったのであろう。
 
しかし、若い女性は、サリドマイドの障害とDNAの傷との関連を解説することができなかった。
 
若い女性は、「サリドマイドとは別の問題です。」と言い、「とにかく、タバコにはそういう問題があるのです!」と言い、サリドマイドの話題を避けようとした。そして、再び、タバコは胎盤を通過する、タバコはDNAを傷つけてしまう、と繰り返し強調した。

このグループは、昼食後であるにもかかわらず、まるで、職場の検討会の雰囲気のような会話を続けていた。
 
しばらく、会話は続いていたが、その途中で、若い女性は、ふ と言った。
「先生の通訳役をしたいのだけれど・・・。」

彼女がそこまで言ったので、私は、「それができなくて、ごめんなさい」 とでも言うのかと予想した。しかし、彼女の言葉は、そこで終わった。

この時の彼女は、年配者からの質問のDNAの傷について、解説できない自分を反省したであろうが、謙虚な言葉は、彼女の口からは出なかった。
 
彼女が、年配者を前に、背伸びしているという印象は、見え見えであった。
 
私は、悪い癖だと思うが、レストランでたまたま、聞こえてしまう話に興味を感じてしまうことがある。特に、病気の話題になると、どのような内容なのかと聴き耳をたててしまうのである。
 
元々、食事の会話は、カジュアルなフリートークの場であり、会話は自由に交差していく。
誰かが、誰かの話をうかがうというものでない。
わからない話題が出てくれば、質問が出てくる。そして、答えが出て、共通に理解し合って、話題はぐるぐると廻って行く。わからない事は、素直に、そこはよくわからないと言えば良い環境である。
 
おしゃべりと言うのは、お互いの知識を対等に交換し合ってこそのものである。
不十分な知識で、場をし切りたいとの欲望が強い人は、おしゃべりに向かない。知らないことを無理してつくろっても、他人にもわかってしまうものである。
 
今回の場合も、若い女性の知識のレベルがそれほど高くないと、周りの年配者は気付いている。それでも、この若い女性は、自身の言い方を工夫していくという態度がとれなかった。一方で、年配者たちは、そんな彼女に寛大だったと思う。
 
この若い彼女は、「私が教えてあげます」みたいな感じで、勢いよく知識を披露してしまったため、後には引けなくなっていた。
 
この若い女性のように、背伸びするタイプの人は、消耗しやすく、自身が苦しくなりやすいのではないか?そして、こうした人に消耗が続くと、メンタルトラブルが起きやすいと思う。
 
さらに、背伸びに加えて、自身の意見は、清く、美しくと信じ、他人をせめるが、自分に寛大で、反省しても、それを外に表せないタイプであれば、かかえる消耗は一段と強くなる。消耗が続けば、うつと不眠がくる。
 
今回の若い女性のように、年配者を前に、話題を仕切ろうとするのは、はたから見ても、はらはらする。
 
若い彼女は、周りからくるアンチの雰囲気を感じ始めても、それが自分側の問題とは気づかず、素直に自分を出すことができない。
 
若い彼女自身は、こんなに気を使っているのに、なぜ、受け入れられないのか?と感じたりするだろう。世間をわ
たるにはトラブルが起きやすい性格と言えそうだ。
 
彼女のような人は、いろいろな経験を積んで、早く、自分がみえてきて欲しい。
いやなものを吸い込んだ時に、気管支(気道)が狭くなるのは、体を守るために起きてくる防御的な生体反応です。この気管支(気道)が、狭くなる反応が強く起きるのが喘息です。気管支が強く縮んでしまうので、息が苦しくなってしまいます。
 
喘息は、ヒューヒューして、息が苦しくなる病気ですが、何が原因で、喘息発作になっているかをみつけるのは難しいです。
一般の人では、ひとつの物質が原因で、喘息が起きてくるわけではなさそうです。
気管支が強く縮む人は、気管支の調整が悪いのです。この気管支が縮み易い体質、すなわち、気道の過敏な体質を持つ人のことを、喘息の素因を持つ人と呼びます。
 
喘息発症は、環境と素因の両方が発症原因であるとよく言われます。人が吸い込む空気の条件が悪くなると、まず、気管支の調整が弱い人から喘息が発症し、空気の条件がさらに悪くなると、その次に弱い人に喘息が発症します。そして、段階的に、喘息を持つ人が増えて行きます。
 
今の日本人の喘息は、原因がわかりにくいです。日本人の喘息は、原因としてダニが多いと言われていますが、実際には、喘息とダニとの関連は、それほど、はっきりしません。以前は、ダニが原因と言われる時代がありましたが、今は、反省期です。
まして、咳喘息と呼ばれる病気がありますが、喘息だか、喘息でないのかあいまいで、何が咳の原因かは、わかりません。
 
気管支の弱い人に喘息が起きてきますが、職業として濃厚に吸い込む物質によっておきてくる喘息に、職業性の喘息があります。環境因子が極めて強く、特定の物質(抗原)が、喘息発症に関連するタイプです。
 
この職業性の喘息を理解することは、喘息という病気の全体像の理解につながると思いますので、ここに紹介します。
 
職業性の喘息は、吸い込む空気に、病気の原因があることが分かっています。つまり、喘息はいかに発症してくるかの人体モデルとも言えます。
 
職場環境で長時間、繰り返し吸い込んでも、皆、喘息になるわけでなく、喘息を起こす物質は、特殊な構造体を持ちます。その特殊物質が多い環境に限定して喘息が起きてくるのです。実際に、特定の職場で喘息が多発するという事件が起きて、始めて注目されることになります。
 
肌につけるたくさんの化粧品がある中で、小麦入り石鹸だけが、多くの人にアレルギー症状を起こした事と共通します。
 
それでは、強い酸とか、アルカリとか、咳がすぐ出るような刺激性薬品ではどうでしょうか?人が、閉鎖環境で、刺激性の薬品を使っている時は、アレルギー型の喘息とは別の病気になります。
 
アレルギー型の喘息は、蛋白性の物質のうち、人の免疫を刺激する特殊な構造体を持っているのです。人体実験のように、人は、この構造物と触れてしまうと、多くの人に、喘息を発症してきます。アレルギーや喘息の素因が無くても、喘息が起きてくるようになります。
 
喘息の元となる物質(抗原と呼ばれる蛋白質)を吸い込むと、喘息発作が起きるものを、アレルギー型の喘息と呼びます。抗原吸入と、喘息発作との関連がはっきりしています。
 
つまり、職場で作業すると喘息が起こり、職場から離れると、喘息が治まる事実がはっきりしているのです。
つまり、喘息の元となる物質(抗原)を避けて行くと、喘息は起きなくなります。治療をしなくても、発作は治まってくれるのです。
 
この職業性喘息の代表的なものが、ホヤ喘息です。
ホヤは、カキの殻につく軟体動物で、広島では、カキの殻にホヤがついてしまうので、作業員がカキの身を出す時に、この軟体動物ホヤから出る液体を吸い込んで喘息になりました。
カキの作業する人(主として女性)が、高い確率で喘息になってしまいました。作業に行くと喘息が起きるが、一晩寝て朝方になると喘息が治まるため、又、翌朝、作業にでて喘息となり、次第に喘息が悪化していくようです。
最初は、カキが喘息を起こすと考えられたようですが、これはすぐ否定されました。
 
今の知識と少し違うことは、ホヤの液体を吸い込んで喘息になると、当時の研究者は皆、信じていたようです。
しかし、今のアレルギーの知識では、皮膚や粘膜からも、かなりホヤ抗原が作業員の体内に入り込んだ結果、喘息の原因になった可能性を考えます。
これを皮膚感作と呼びますが、皮膚から入ることで、IgEタイプの抗体をつくりやすくなるのです。この知識は、以前(2000年以前)には一般的でありませんでした。
 
ホヤ喘息は、1960年頃から研究が進み、2000年には喘息発症の全貌が明らかになりました。
そして、職場環境の改善があり、ホヤ喘息は減ってきています。
 
ホヤが喘息の原因であることをつきとめるまで、臨床医、蛋白分析の専門家など、多くの研究者の熱い努力がありました。当時は、アレルギーの反応の有無を確かめるのは、皮膚が赤くなるかを、人の皮膚で調べると言う生体検査しか手段しかありませんでした。
 
患者さんたちは、何度も皮膚テストをされたり、喘息を誘発させられたりしました。まさに、患者さんたちは、体を張って病気解明に協力しました。医師たちも、自らの皮膚を使って、アレルギーの実験を繰り返しました。
治療のために、ホヤを精製してホヤ抗原を作り、患者さんに注射して、減感作療法も行いました。その治療成績はすばらしいものでした。

この一連のホヤ喘息の研究により、わかったことは、

○世の中に存在する、あるとあらゆる物質の中で、人間に喘息を起こす能力の強い物質が存在する。この構造物に高濃度で暴露されると、多くの人がアレルギー型の喘息となる。

○アレルギー型喘息は、原因となる物質(抗原)をみつけて避けることが一番大事

○アレルギー型喘息は、注射による減感作療法が効く。 注射で抗原を人工的にいれることで、体の免疫が変質する。つまり、IgEを作るのを止めて、IgGを作り始める。このIgGが、過敏なIgEの反応を抑えることができる。その有効率は、100%に近い。

○カキの作業を開始して、早い人では、1-2か月で喘息となるが、長い人では、15年たってから喘息となる人がいる。

○ホヤ喘息では、家族歴で喘息の人は多くない。この意味は、環境が悪ければ、アレルギー体質がなくても、喘息が起きてくる事実を証明している。
 
病気の発症には、極めて個人差が強い事がわかる。免疫の調整力の高い人は、環境が悪くても喘息になりにくく、健康を維持できる。しかし、調整能力が破たんすると、喘息が起きてきてしまう。一方、調整能力が低い人は、少しの刺激で、すぐに喘息が発症する。
 
○健康な人(喘息で無い人)でもホヤに対するIgEを持っている。つまり、IgEを作ることは、その時点では喘息発症とは必ずしも関連しない。
 
○くしゃみ、鼻炎、結膜炎(目のかゆみ)の症状が先行してから、喘息発作が起きる。抗原が最初に触れる部分、鼻とか目とか、顔の表面の粘膜から、アレルギー反応が始まる。顔の表面が先行し、喘息発作はやや遅れる。
 
今は、作業環境とか行政の管理がきびしくなり、職業性のアレルギー型喘息が集団的に発症するということは無くなりました。
 
現在、不幸な出来事であった職業性の喘息は少なくなり、職場の環境が良くなっても、現在も、喘息はあまり減っていません。人の方の反応がおかしくなっているのでしょう。今に残っている喘息については、その解明のアプローチは難しいものとなっています。
 
 
皆さまは、職場なら企業検診を、会社勤めで無い方は、地域で住民検診を受けていると思います。検診の結果を手にした時、不安な思いをしたことがありますか?
 
私も、検診の診察医として参加することがあります。企業や住民検診に、検診医として参加すると、検診後の結果に対して、受診者が疑問を持ち続けていることが少なくないことがわかります。
 
血液検査の結果が、Aとか、Bとかで表示されることが多いと思いますが、検診結果をもらった受診者には、AからBへの変化の意味がわかりません。昨年は、Aだったのに、なぜ、今年はBなの?病気との関連は、どう考えるの?

お酒も飲まないのに、太ってもいなのに、肝機能のALT、AST、γ-GTPが、微妙に高いのはどうして?

胸部レントゲンなどで、硬化像あり、ってどんな意味?特に、医者に行けとは書いていないが、放置して良いの?

腹部エコーでも、腎臓や肝臓にのう胞ありなどと書かれているけど、放置していいの?
心電図で、RBBB、ブルガダ症候群って、何?

などなど、
 
医師が検診の結果を見て、説明が難しいと思うのは、異常な結果が出た時、それが実際の病気にどの位、結びつくのか?を判断する作業の時です。異常値が出た時に、どこまで受診者に治療行動を勧めるのかも、難しい判断です。
多くの検診の場合、最終判定するのは、検診医ではありません。
 
例えば、尿たんぱくとか、血尿などで、説明の難しさを感じます。
一方、血液の数値の検査は、異常であるとの評価をするのは簡単ですが、やはり、病名との関連で悩みます。
 
心電図が、明らかに、危険につながる異常であれば、すぐ、受診するように勧めますが、こうした場合は少なく、むしろ、毎年の微妙な異常が続く人が多いのではないかと思います。
 
結局、こうした微妙な異常は、心電図の経過を追っていく必要があるのです。検診が中断してしまえば、せっかくのデータが途切れます。心電図は用語が難しく、検診結果では、専門的用語がそのまま、書かれているので、受診者の悩みが起きてきます。このあたりも改善されると良いです。
 
厚労省は、患者向けの病気のガイドラインを、“マインド”と呼ぶネットサイトに載せています。医師向け一般者向けのガイドラインものっています。指導的な立場にいる医師たちがガイドラインを書いているので、参考になるかと思います。
 
しかし、実際には、これだけ読んで理解するのは難しいでしょう。こうしたものを、説明してくれる専門者がそばにいて、ちょっとしたアドバイスをくれると、一般人はかなり、病気の理解が進むと思います。

http://minds.jcqhc.or.jp/n/public_user_main.php#
この“マインド”中には、このように書かれています。
健診での検査結果を解釈するときにいくつかの点に注意する必要があります。健診はすべての病気を発見したり、全く病気がないとお墨付きを与える目的で実施されるものではありません。特に上記の偽陽性、偽陰性の問題があります。一部の癌は体の中に潜んでいても健診ではうまく発見できないことがあります。また将来、心筋梗塞や脳血管障害になりやすい方をある程度区別はできても、このような疾患になる人、ならない人を100%正しく区別できるわけではありません。大腸癌検診で行う便潜血反応でも、これが陽性だからといって必ずしも大腸癌があるわけではありません。大腸内視鏡などで精密検査を受ける必要があります。また心電図も通常と違う心電図波形であっても、すべてが心疾患の存在を示しているわけではありません。胸部X(エックス)線では、早期の肺癌を十分見つけることができません。検診では陰性でも、症状がある場合は、病院の受診を考えたほうがよいことも少なくありません。
 
検診の問題点のひとつが、検診で指摘される異常値と、診断・治療を要する病気と決まる異常値との間に、若干のギャップがあることです。
 
異常を指摘されたが、診療機関に言ったら、担当医に何でもないと言われて憤慨する人など、受診者の不満はいろいろあります。
 
検診で通院するように言われたので、一度は診療を受けたが、医師から満足できる答えが得られず、その後、止めてしまい、でも、やっぱり気にする受診者もいます。
 
医師に行けとの指示が出ても、診療所の大きさまで、なかなか指導してくれません。専門外の医師に言ってしまうこともあるでしょう。検診結果にまつわる問題点は少なくありません。
 
喫煙とか、嗜好に関するトラブルも起きます。
検診時に、医師から、絶対にタバコの話題を言われたくないと構える受診者もいます。男性は概しておおらかに「わかっているけど、やめられません」とおっしゃる方が多いです。一方、年配で喫煙する女性は、「やめられません」と泣きそうになる方がいます。
 
レントゲンなど、継続的な経過の判断が必要な場合は、その検診会社(病院)への、問い合わせが大事かと思います。

病気を指摘されるのは、誰でもいやでつらいものです。
画面を見ているパソコンにトラブルが起きると、受診者も心配そうに覗き込みます。「いや、パソコンのトラブルです。」と言うと、皆さん、ほっとします。それだけ、受診者はストレスある状態になるのだと思います。
 
明らかな異常であれば、医師も判断しやすいのですが、微妙な異常は、判断が難しいので、医師ははっきり答えない場合があります。医師は、がんが無いとか、異常がないとか、否定をする作業は苦手なのです。一方、病気があり、治療を要するという判断は、比較的に、容易です。
 
明らかな異常を除き、検診とは結論を急ぐ必要はありません。かかりつけ医や、近所の医師がいれば、その医師に聞いてみる手もあります。

検診会社は、オプション検査を用意していることもありますが、血液の検査などでは、実際に結果の説明がないので、受診者は迷ってしまうことがあります。検査とは、検査をする必要性についての説明と、出た結果に対する説明が、共に必須なのですが、そのあたりが検診では薄いような気がします。検査値の独り歩きは、不安をあおるだけです。
 
オプション検査の必要性や精度についての、説明が必要です。結果を説明をする医師がいるのが、望ましいですね。

一般的に企業や住民検診では、医師はブースと呼ばれるカーテン囲いの中で、診察します。多くは、2-3分の短時間で診なくてなりません。

まず、ブースに入ってくる受診者の全体の印象を見ます。「いかがですか?」の短い質問で、聴力や言葉のチェックができます。次に心雑音と呼吸音の聴診です。企業検診では、ほとんど異常のある方はいないだろうと思っていると、案外、何もないはずの人で、逆流を思わせる心雑音が聞こえたりします。
 
尚、学とみ子の相談電話でも、皆さまからの疑問をお受けしていますので、当相談センターでは、検診結果について、皆さまの疑問についての説明をします。
ネットによる相談申し込みフォームへの記入をお願いします。
 
中高年になってから女性は、男性より、統合失調症が起きやすい。
全年齢で、女性はうつや不安障害が多いが、中高年女性のメンタル障害は、それまでの生きざまが、大いに影響するだろう。

女性のメンタル障害を考える時に、新聞の人生相談や投稿欄は、参考になる。そこには、女性たちの素直な感情が書かれているからである。

新聞の投稿欄には、一般人からの投稿文章が載る。じっくり読むと、示唆に富むものがある。
その示唆とは、必ずしも、書き手が意図したことではなく、副次的なものである。
つまり、投稿文の作者である女性は、大事な部分にきづかず、”頭隠して、尻隠さず”的な投稿をしているのである。
 
最近、経験したことを紹介したい。投稿文章を書いたのは70代女性、夫婦円満で満足した老後性格を送る人のようであった。
 
夫と、時々、美術館に行って充実した時間を過ごしているという。その彼女が、美術館に出向く時は、スニーカーを履いて行く。その理由は、足音がうるさくないようにとの、他人への配慮である。
 
彼女は、普段、少し高めのヒールをはいておしゃれを楽しむ人か、普段もぺったんこの靴かは、書いていない。年齢からは後者の可能性が高い。
 
日ごろから、この彼女は、美術館で女性の歩く時のヒールの足音が響くのが、とても不快であると感じている。
そして、他の人も同じように、美術館でのヒールは、他人にとても迷惑をかける行為なので、止めて欲しいと書いてある。
 
この文章を読んで、私は思う。

彼女は、夫と美術館の中で、会話は交わさないのであろうか?おしゃべりはしないのだろうか?
 
日本の美術館は、話をしながら観賞している人がかなり多い。外国とは異なり、美術館内の私語や音に、日本人は甘いのである。
 
確かにヒールの事はうるさいかもしれない。
しかし、ひとりで観賞している人にとっては、人の声の方がうるさいと感じるかもしれないし、ヒールの機械的な音はあまり気にならないという人もいるだろう。
 
実際にはさまざまな音のある美術館で、ヒールの事の不快感は、人それぞれである。
若く美しい女性のヒールの音は、男性にとってはトキめく思いかもしれないし、不快ではないかもしれない。
 
投稿主のこの女性が、ヒールの音の方がより不快と感じるのはかまわないのだが、他の人も同様により不快であるはずと決めつけていることは問題である。
 
この投稿主の女性は、幸せな人であり、夫に感謝して人生を過ごせていて、人のいやがることはせず、品行方正な生き方を目指し、実行している人だ。
 
しかし、加齢女性が、ヒールが不快と訴えれば、ヒールを履く(若い)女性へのジェラシと、他人から思われかねない。
 
もし、この女性がヒールの女性に注意したとする。すると、ヒールの女性からこう言われる。「すみません、でも、ヒールの音って、そんなにうるさいですか?」
 
すると、この女性は、「うるさいでしょう。どうしておわかりにならないの?他の音に比べたら、ヒールは異様に響くのだから、びっくりしてしまうのよ?他の方に対してだって、申し訳ないと思わないの?」

こうなると、ヒールの女性も負けてはいない。
「じゃ、あなたがさっき、御主人としゃべっていて、私はうるさかったのですが、そちらはどうなんですか?」
 
さらに、注意した女性は答える。
「私が主人としゃべったのは、短い時間で小さな声です。あなたのヒールの音は大きいのよ」

すると、ヒールの女性は答える。
「おしゃべりの方がずっとうるさいです。私は普段でもヒールを履いています。ヒールを履いていることは私にとって普通なんです」
 
まあ、こんな具合に、二人の女性の確執はさらに、エスカレートしてしまうかもしれない。
 
しかし、こうした場合、最初に注意した女性が、ヒールは他人に迷惑だと、必死に主張すればするほど、味方は少なくなるだろう。
 
美術館での言い争いはうるさいし、ヒールを履けない女性は、ヒールを履く女性にジェラシーしていると、感じる人がだんだん増えていってしまうのではないか?と思うのである。
 
たまたま、そばにいた第三者の男性が言う。「お二人さん共、うるさいですよ。」程度の注意ならましだが、
場合によっては、「ばあさんよ!、自分がヒールがもう履けないからって、そうひがむなよ!」かも・・。

しばしば、世間の男性は、若い方の女性の味方なのである。
 
女性はこうした世間の評価には気付かず、ご自身の信じる価値観がすべてなのである。自分が正当なのである。しかし、世間の思惑は違う。
 
ご自身の価値観にとらわれて、投稿をしたり、注意したり、主張したりの行為は、その先を良く予想することが大事だ。それは、自分自身を傷つけないためである。
 
自分の持つ価値観を信じすぎる女性は、厳しい世間の波にもまれていない影響かもしれない。
 
女性に生活力のある夫がいれば、女性は守られる。世間は、女性に失礼なことはしない。

すると、
相手の思惑を想像する能力が育たない、
自分の能力を試される機会がない、
人から文句を言われにくい立場にいる、
そんな人生となる。
 
こうした状況で長く人生を送ると、自慢話であるのに、自慢話をしていることに気づかない、ジェラシーからくる行動でも、自分自身のジェラシーに気づかず正当化する。

それは、自分自身の価値観を見直す自分がいないことである。
 
それで済んでいるうちは良いのだが、夫の社会的立場が低下したり、夫の死別などがあれば、女性には、想像できないような環境の変化が起きる。
 
そんな時、今までの価値観が通らなくなる。ストレスが積み重なれば、メンタルがやられ、不眠、うつなどで苦しむようになるかもしれない。
 
自分自身の立場の低下や、価値観の変化で起きる気持ちの落ち込みは、うつや不安症として、治療の対象になるかもしれないが、こうした女性は、医者や薬に頼り過ぎる傾向があると思う。
 
こんな時になって困らないように、女性たちは、未婚、既婚にかかわらず、自分の価値観に固執せず、男社会の理不尽さを見つめつつうまくスルーして、価値観の修正を意識的にしていくことが必要なのだと思う。