河合の「昔話の深層」で紹介されている理想的女性像アニマについて、もう少し、書いていきたいと思う。
ユングは、男性の夢の中に登場する女性像の持つ深い意義について気づき、それを心、あるいは魂の像であると考えて、それらの像の原型となるものを仮定し、アニマと名づけた。
アニマは、男性を未知の世界へと誘う。しかし、それは危険な道である。男性が決断し、なにかと成し遂げようとする時、彼女は迷いの言葉をささやく存在となっている。
河合は、ロシアの昔話で、川向こうにいる美女の誘いにのって、川にとびこんだ猟師がおぼれ死ぬ話を引用している。私は、ドイツのローレライの歌のストリーなどを思い出す。こうした話は、世界中で物語のネタになっている。
河合は、日本の昔話に見るその類似性として、かぐや姫をあげている。かぐや姫は、求婚者の王子達たちにもろもろの難題をあびせ、彼らに命がけの思いをさせたあげくに、かぐや姫は天にのぼって消えてしまう。
河合は、日本の昔話に見るその類似性として、かぐや姫をあげている。かぐや姫は、求婚者の王子達たちにもろもろの難題をあびせ、彼らに命がけの思いをさせたあげくに、かぐや姫は天にのぼって消えてしまう。
東西を問わず、アニマへの接近は危険を伴う。あきらめられずアニマへの執着を続ければ、破滅にも向かう。
しかし、河合によれば、西洋の昔話の典型は、それでも最後は、姫と結ばれる結果になることが多いと言う。アニマへの求愛の過程で、求婚者は、姫の父より酷な難題を言い渡される。父親像は、子どもの成長のためには厳しい試練を課す。それを克服した男性のみに、姫がわたされるという結末にもっていく。
だから、男性は努力すべきであり、そうすれば、最後は、姫と結婚できて、めでたしめでたしの幸せが来るとされる。
河合によれば、かぐや姫が天にのぼってしまうストリーの作られ方は、日本独特のものと思われ、日本では、「もののあわれ」の感情に美を感じる国民性があるためではないかという。
ユングらの精神分析学に出てくるアニマは、理想的な女性像だけでなく、男性の心にある女性的な思考傾向を象徴しているのではないか?と河合は分析している。女性的な思考傾向とは、漠然としたもの、非合理的なもの、勘への頼り、不条理で筋の立たないものなどということらしい。
つまり、理論的でなく感情的なものは、女性的なものということなのだ。
現在の女性たちも、多かれ少なかれ、男性からこんな視点で見られていることがあることを、忘れないでいた方が損はない。つまり、女性が意思を通したいと思うときは、感情論ではないところを強調して、相手の納得をめざす努力が良いように思う。
最近の若い男性の女性感は、かなりばらついてきたと思うが、育った家庭環境の影響が大きいだろう。
アニマが危険であるとの警告は、感情的な世界に男性がはまってしまうと危険であるとするものである。
男性が理性を失い、感情的になってしまうと、将来に対する展望を立てにくく、地味な努力を続けることなく破滅に向かう迷路にはまることとなる。迷路は、無意識から意識への流れていた理性が逆流して、意識から無意識に流れ去ってしまう状況らしい。これが、心理学での心の病気の説明経路だ。
男性は、激しく怒ったりして感情的になるが、それは女性のそれとは違い、計算されているような気がする。周囲に対して、男性は、自らの意思をより明確にする手段として怒りを利用し、強い言い方をするように思う。
相手に対し、強く諭したり、自らの意思を曲げる気持ちのないことを相手に伝えるためである。
強い感情をあらわにする男性を前に、周囲の人々は言いなりになる。
一方、女性は、後の顛末を気にすることなく、意図を欠いたまま、怒りを爆発させてしまい、結局、女性自身の立場を悪くするようなことになってしまう。つまり、周囲の信頼を失い、無駄で損な怒りである。
怒った結果、女性は周囲に対して立場が悪くなるのに対し、一方、男性が怒れば、立場が悪くならないだけでなく、その権限の獲得につながることになる。
権威を確立し、維持するするために、男性支配者が権力の誇示に苦労してきた経過が、歴史をつくってきた。
男性にとってアルマは、危険となぞをはらんだ存在である。男性にとって女性はなぞであり、女性にとって男性はなぞである。それぞれを理解しおうとやっきになれば、それぞれの影が活躍を始める。こうした影が活躍するがために、男女関係がどろどろになる経過を描いた昔話も多くある。
男女関係が険悪となり、影と本音がもつれあって、お互いが相手を非難するようになると、これ以上の悪人はいないかのようなお互いに悪態をつくようになる。
現代でそれをみるなら、有名人男女の恋愛結婚スキャンダルであり、マスコミの格好のえじきになっているようである。