あるきびとの岩手旅日記 -24ページ目

不正をしない理由

鉄道の、運賃収受システムは地域によってさまざまである。東京では駅の改札でキップをチェックしているが、無人駅の多い地方では車掌が改札を行なったり、鉄道会社によっては「キップをお持ちでない方は、降りる際に運賃を運賃箱にお入れ下さい」と案内し、チェックを行なっていないこともある。物理的に不正乗車ができない東京の鉄道に慣れていると、「なんだ、これならタダ乗りできてしまうではないか」と呆れにも似た感情を抱いてしまう。
 だが、東京の厳しいシステムが優秀で、地方の甘いシステムがダメかというと、そういうことではない。東京では、物理的に不正乗車ができないから結果的に不正乗車をしない、という一面がある。高校生のとき、同級生のMは「青梅線は無人駅だらけで車掌が厳しくないのでタダ乗りできる」と話していた。東京都心では不正乗車ができない。だから不正乗車をしない。しかし、郊外の青梅線では不正乗車ができる。だから不正乗車をしてもいい。鉄道会社だって黙認しているのでは? そんな考えにつながってしまう。
 日本の、子どもに対する平均的なしつけの姿勢にも問題がある。例えば、「なぜ、赤信号で進んではいけないのか?」と訊かれたらどう答えるだろう? おそらくほとんどの親が、「赤信号で進むと車にひかれるからダメ」と答えるに違いない。だが、この考えでいくと、「車にひかれなければ信号を無視してもかまわない」ということになる。さらに、大人になって車を運転する立場になったとき、
「事故を起こさなければ交通ルールを破っても構わない」
 となるのはしごく当然なことである。
 不正乗車も、信号無視も、自分が困るからやってはいけないのだという考えで教えられると、自分が損しなければ、あるいは損しても構わないのならばやってもかまわないという考えに至ってしまう。これは大変危険なことである。大げさな話、
「死刑を覚悟のうえならば、人を殺しても構わない」
 という発想にもつながるからである。人を殺してはいけない理由が、法律で罰せられるからだとすれば、罰せられても構わなければ殺人を犯してもいいという考えは、論理的に何ら間違ってはいない。
 悪いことをしても、自分に災難がふりかかることはない。それでも、悪いことはしてはならない。そんな意識をこれからの日本人に期待したいところである。

お知らせ

 明日からしばらくの間、家を空けるため更新を休ませていただきます。
 再開は1月中旬頃となります。

でんでんむしの実力

 $あるきびとの岩手旅日記

 盛岡には、「でんでんむし号」という循環バスが走っている。1乗車100円。1日乗り放題のフリーきっぷが300円。盛岡駅前を起点として、材木町や中央通り、岩手公園など中心市街地をぐるっとまわっている。盛岡は地方都市の域を出ない町であるが、この「でんでんむし号」は右回りが10分毎、左回りが15分毎と大都市並みの高頻度運転をしている。先日、仙台を走る「るーぷる仙台」について記したが、「るーぷる仙台」は観光に特化した路線で、観光名所の前にしかバス停が設置されていない。それに対し、でんでんむし号は岩手公園や啄木新婚の家といった観光名所だけでなく、中央通や菜園川徳前、県庁市役所前などなど町の重要スポットへもいざなってくれる。そのため地元客の利用も多く、観光客がそれに若干混ざって、車内は雑然とした賑わいをみせている。この「雑然としている」という点が重要だ。路線バスという乗り物に田舎臭さが漂うのは、特定の人しか利用しない閉鎖性が影響している。それに対し鉄道は、誰でも気軽に利用できて車内には色んな人がいる。盛岡のでんでんむし号は、鉄道がもつ都会的な大らかさを、地方都市のバスでありながら実現してしまった素晴らしい路線なのである。

奇跡とは何か

 最近、「奇跡」という言葉が乱用されているような気がする。奇跡の生還。奇跡の詩人。奇跡のピアニスト。それらはみな、「奇跡」という言葉を使って人々に感動を強要している。もし、それら奇跡に「はぁ~?」と白けた反応を示す者がいれば、その者は「心が貧しいかわいそうな人」ということになる。
 もう一度、奇跡という言葉の意味を考えてみよう。辞書で「奇跡」を引くと、次のように出ている。
「常識では起こることが考えられない、ふしぎな出来事」
 つまり、滅多に起こらない出来事が奇跡だということである。いくら感動的な出来事でも、それがありふれた事象であれば奇跡とはいえない。最近、「ありふれた奇跡」というドラマが放送されたが、そのタイトルは完全に矛盾している。ありふれていたら奇跡にはならない。“奇跡”という熟語を乗っけることで、感動的な雰囲気を演出しているだけである。
 一つの卵子に向かって何十億(だっけ?)の精子が突進していき、そのなかでたったひとつだけ生き残った精子だけが受精に結びつけることができる。だから、あなたが生まれたのは何十億分の一の奇跡なんだよ~、なんて話もよく聞く。しかしこれもおかしな話だ。放出された精子一つ一つに1、2、3……と番号をあらかじめ振り、「291086番の精子が受精すると思う!」って予想し、それが当たったならたしかに何十億分の一の奇跡である。しかし、受精してしまってからでは、201086番目が受精してようが201087番目が受精してようが同じことである。この二つを区別しないで、何十億分の一の出来事だからすごいなんて言うのは、論理的に考えておかしなことだ。
 もし、コトが起きたあとから「これは滅多に起きないことだったんだよ!」といって奇跡と認められるのなら、奇跡は誰でも簡単に起こすことができる。用意するのはサイコロ1個でいい。まず、サイコロを振る。何の目が出たかは知らないが、仮に3が出たとしよう。そしたら、もう一回サイコロを振る。今度は4が出た。ハイもう一回。今度は6。そんな調子で6回連続でサイコロを振る。その結果、順に3、4,6、6、2、1という目が出たとしよう。ハイ、奇跡の一丁上がりである。なぜなら、1回目に3が出る確率は6分の1。2回目に4が出る確率は6分の1。その後も同じことで、結果的に3、4、6、6、2、1という順序で出る確率は6分の1の6乗で、46656分の1。そりゃあ簡単には起らないことである。
 日常の「あれ? これって奇跡かも」という出来事もこれと同じこと。電車のロングシートに座ったら、同じ並びにいる人が山田さん、佐藤さん、鈴木さん、田中さん、高橋さんという組み合わせになることなんて滅多にないことである。この瞬間の1秒後に起こる出来事は、どんな事象であっても、あらかじめ予測していて当たれば確かに奇跡である。だが、予測していなければ、どんなに変わった出来事でも奇跡とは呼べない。膨大な数存在する、起こる確率が非常に低い事象のうちのひとつが目の前にあらわれただけの話なのである。
 この前、母がテレビをみながらこんなことを口にした。
「うわっ! すごい! テレビつけたらオリオン座のことやってる! 今さっきオリオン座のこと考えていたんだよ。これって奇跡だよね」
 夢を壊すようで悪いが、残念ながらこれも奇跡ではない。なぜなら、母はオリオン座のことだけでなく、昼ごはんのうどんのことを考えたり、明日の天気のことを考えたり、色んなことを考えているはずである、一方、テレビの方だって環境問題を取り上げたり、殺人事件を取り上げたり鉄道模型を紹介したりいろんな情報を発信している。つまり単純化すると、1から100までの目がある「100面サイコロ」が2つあって、その双方を振ったときに出た目が一致するかどうかを調べている、という状況だ。その2つのサイコロを振るという動作を1回だけ行ったとき(これを試行という。高校の数学の教科書に出ているぞ)、その目が一致する確率は100分の1である。裏を返せば、一致しない確率は100分の99といえる。しかし、試行を複数回繰り返してよいとなれば、2回の試行で1回も一致しない確率は100分の99を2乗して、10000分の9801。3回、4回……と繰り返していけば、そのうち1回も一致しない確率はどこまでもゼロに近づいていくわけである。
 母は、考えていたこととテレビでやっていた内容が一致しないという結果を、何度も経験しているはずである。そのなかでたった1回だけ、考えていることとテレビの内容が一致していたとしても不思議ではない。いくら起こりにくい出来事であっても、その出来事を起こすチャンスが莫大な数あれば、その出来事は必ず起きるのである。それを奇跡と表現するのであれば、
「奇跡は起きて当たり前。奇跡が起きない確率は0%」
 というのが正しいのだ。
 感動的な物語に対し、確率論を持ち込んで反論するとは心の冷たいやつだ! と思われるかもしれない。そうこき下ろすのは結構。だが最後に言わせてほしい。言葉というのは、その言葉の意味をしっかりと理解したうえで使わないと、勝手なイメージだけがひとり歩きしてしまう。奇跡とはどういうものなのか。何が奇跡で、何が奇跡でないのか。それら認識をしっかり持ってやることで、一つ一つの言葉が生きてくるのである。

30人31脚の思惑

先日、「30人31脚」という番組をみた。ご存知の方も多いだろうが一応説明しておくと、これは短距離走である。小学生30人が横一列に並び、互いの足を結んで31脚にして50メートルを走る。で、そのタイムを競い合うという競技である。
 毎年なんとなく観てしまうのだが、そのたびにムシャクシャとした思いに苛まれる。小学生たちが皆の心を一つにして走る姿が感動的――というのが「正しい鑑賞法」らしいのだが、小学生をバカにしている感が否めないからである。
 もし、小学生をバカにしていないというのなら、同じ競技を大人がやればいい。大人が30人並んで足をつなぐ。んでもって、心をひとつにして走ればよいのだ。しかし、その企画はウケないだろう。なぜなら、「足をヒモでつなぐ」という不自由を乗り越える姿が、大人には似合わないからである。それに対し、子どもに不自由を課し、それでもなおその不自由を克服する姿は「健気」であり、「可愛く」もある。大人たちが決めた、無駄に狭いルールの枠内で懸命に頑張るのは、小学生でなければならないのである。
 大人たちは、子どもたちに対して可愛らしさを求めている。その要求に応えない子どもは生意気なのである。私なんか、そんな生意気の典型だ。

募金人の扱い

 この前、秋葉原の駅前で声をかけられた。
「すみません、岩手宮城内陸地震の募金をお願いしま~す」
 やれやれ。この募金の人、1年以上前からずっとこの場所でチッポケな募金箱をぶら下げ、道行く人に声をかけまくっている。いつもなら無視して立ち去る私だが、今回はちょっと相手を翻弄してやろうと思い、
「岩手県の人ですか?」
 と訊ねてみた。
 もし相手が「はい」と答えたら、すかさず「じゃあ、龍泉洞があるのは何という町ですか?」とクイズを出す。「盛岡と宮古を結ぶ国道は何号線か?」でもいい。いずれも、岩手県の人ならば答えられて当たり前の問題である。岩手県の者だと名乗っておきながら、このクイズに正解できなければ岩手県と無関係であることが明らかになる。バーカバーカ、である。
 しかし、相手は私の質問に答えず、
「ボランティアグループの者です」
 といって名札を取り出した。その名札には、東京都何とかかんとか会、てな文字が記されている。要するに、正規の目的かどうかは別として岩手県とは無関係だったのである。
 私は黙ってその場を離れた。こんな怪しい募金の人に対して策をめぐらせた自分がバカだった。募金の人なんて、何も考えず無視してやればよいだけだったのだ。

事故の過失について

 小学1年生のとき、私は校内の廊下で正面衝突事故を起こした。早い話が、向こうからやってくる人と真正面からぶつかったのである。相手は同級生のS君。S君は私とぶつかった衝撃で大げさに転び、さらに歯が折れて血まみれになった。
 すぐに、野次馬が集まってきた。いきおいよくぶつかったにもかかわらず、私はほとんど無傷で、S君のほうが一方的に悲惨な状況になっている。S君は、小さい頃のケガがもとで足を不自由にしていて、いつもびっこをひきながら歩いている。そんな障害が、被害を大きくしてしまったようだ。
 私は、野次馬たちから責めたてられた。
「なにやってんだよォ」
「あやまんなさいよ!」
「せんせーにいってこよ♪」
 S君は廊下に転がったまま動かない。私は、その場に棒のように突っ立ったまま、「ご、ごめん……」とつぶやいた。
 S君は病院に運ばれ、口の中を縫う治療を受けた。私はいつものとおり授業。その日は一日中、胸の中がもやもやとして嫌な気分だった。それは、S君に対する罪の意識とかそんなもんじゃない。自分が「悪者」になってしまったという事実に押しつぶされそうだったのである。
 だが、今ならば言える。この一件は私が悪いのではない。S君が悪いということでもない。一方が走っていてぶつかったわけではないので、廊下で正面衝突したのはお互いの過失である。その結果によってS君が大ケガしたからといって、私が悪いということにはならない。
 小学生にそんな概念が理解できるわけないじゃん、と言われるだろう。それもその通りである。それでも、私はこのことを思い出すたびに悔しい気持ちに苛まれるのだ。

インフルエンザよりも恐いもの

 新型インフルエンザが流行っているらしい。
 日本人というのは基本的にバカなので、インフルエンザ対策が必要なのか否か、もし必要ならばどのような策を採るべきかを考えようとしない。考えるのは、「どうしたら、インフルエンザ対策をとっていると他人に認めてもらえるか」
 である。
 例えば、最近はスーパー等の店先にアルコールの消毒液が置いてあるのをよく見かける。それが、インフルエンザ対策なのだという。しかし、ウイルスは空気感染するので、自分の手を消毒したからといってインフルエンザの予防になるとは到底思えない。もし、本当にインフルエンザを本気で予防したいならば、インフルエンザウイルスを絶対に通さないマスクをつくって、それを日本人全員に着用させればよい。強制的にマスクをつけさせることはできないけれども、日本人が大好きな横並び精神を利用すればカンタンだ。もしマスクをつけてない人がいたら、
「何だよアイツ、空気読めよ!!」
「あなたひとりのせいでインフルエンザが蔓延することになるかもしれないのよ? 分かってるの?」
 と圧力をかけるのである。
 少し話が脱線してしまったので元に戻そう。スーパーが店先にアルコール消毒液を置いているのは、要するに「ウチはインフルエンザ対策してるの。文句ある?」とアピールするためである。もしこのアピールを怠ると、
「おたくの店はインフルエンザ対策がなってないぞ!」
 とバカがクレームをつけるのである。もちろんそのバカはインフルエンザなんか恐れてはいないし、スーパーへ入るときに毎回欠かさずアルコール消毒をしているわけではない。皆が「インフルエンザ♪ インフルエンザ♪」と騒ぎながら踊っているときに、その踊りに参加しない奴が許せないだけなのである。
 そして、私がいちばん笑ってしまったのは、三陸鉄道の列車内にアルコール消毒液が置かれていたことである。三陸鉄道というのは、岩手県にある第3セクター鉄道で、全列車ワンマン運転。もちろん1両編成。通学ラッシュを除けば車内に2、3人くらいしか客がいないのがザラである。もし、そんな列車内にアルコール消毒液が必要ならば、山手線には1両あたり10個くらいの消毒液を置かなくてはならないだろう。そんなことをしていては、町じゅうがアルコールの臭いで充満してしまう。全くもってバカである。アホである。マヌケである(ドジではない)。それでも、三陸鉄道(株)が「わが社はインフルエンザ対策をとっている」とアピールするためには、列車内にアルコール消毒液を置く以外に方法がなかったのだろう。
 新型インフルエンザ以前に、この国はインフルエンザよりも恐ろしいウイルスに感染しているようだ。

仙台を斬る

あるきびとの岩手旅日記

 先日、仙台を訪れた。マトモな仙台観光ではない。岩手県へ行った帰りに、ちょっと仙台も寄っていくか、という程度のものである。仙台は、東北や北海道を旅するときにたいてい通る場所なので、駅だけは何度も見ている。ヨドバシカメラが寂しいところにあるなぁとか、タクシー乗り場よりもバス乗り場が奥にあって不便だなぁとか、駅に直結している歩道橋の賑わいは新宿よりも上だなぁとか……。それら駅周辺の印象しか持ち合わせていない。仙台の市街地を時間かけてめぐるのは初めてのことなのである。
 駅前から、「るーぷる仙台」という循環バスに乗った。歩いて町巡りしてもいいのだが、自分にとって仙台は右も左も分からぬ都市。バスに乗って、途中の停留所で降りてその周辺を見てまわった方が迷いがない。
 大混雑のバスは、堂々とした造りの幹線道路を進んだのち、脇道に入って観光名所を巡っていく。晩翠草堂、青葉城、青葉山植物園、メディアテーク……と観光スポットは多く、観光地の嫌いな私も、一応青葉城の城壁を「おー」と眺め、伊達政宗の像を記念撮影した。
 だが、どんな観光スポットをまわろうとも、仙台のイメージは「並木」で決まりである。仙台はとにかく並木道が多い。どこまでいっても道路には緑の木々がつきまとってくる。
 おそらく、仙台にとっては並木道が自慢なのだろうが、少ししつこすぎる感じもした。歩道脇にびっしりと木を並べるだけで飽き足らず、中央分離帯にまで木を設置してしまっている。とくに市街地では並木のつくる影ばかりで昼間でも薄暗い。沿道の店々も木々に隠れてしまっていて、町の主人公の座を植物に奪われてしまっているかのようだ。
 その後、東京に帰ってみて気付いたのだが、実は東京も並木道が多い。私がよく通る環七や青梅街道も木が並んでいる。しかし、仙台のように並木が大いばりすることはなく、普通に歩いていて並木の存在を意識することはない。さりげなく並び、遠慮がちに道へ影を落とす――それが東京の並木なのである。
 こんなことをいうと地方差別だと言われるかもしれないが、町の中身ではなく並木が前に出てきている仙台は、「遅れている」。並木という「工夫」を、人々に意識させない余裕が出てきてこそ、本当の都会だといえるようになるのである。

掟に従わせる方法



 駅前のバスターミナルでバスを待つ。やがて、ローカルな行先方向幕を下げたバスが入ってきて、客が順々にバスへ乗り込んでいく。まことに自然なバスの光景である。
 バスは、鉄道と違って乗車口がひとつしかないので(鉄道でも1両編成だとひとつだけだけどね)、自分が列のいちばん前にいると気持ちがいいものである。そのときも、自分が誰よりも早く乗り場にいたため、列のいちばん前を確保していた。もちろん、ただ移動するためだけならば、やってきたバスに堂々と一番乗りすればよい。しかし旅行となると話は別で、停留所に停車中のバスをカメラに収めておきたい。そこで、列からちょっと外れてカシャッとやる。そんなスキをついて、後ろに並んでいた老人たちがぞろぞろと車内に流れ込み、結局自分は一番最後になってしまった。
 以上、岩手県の宮古駅前での出来事である。
 自分が勝手に列を外れたのだから、後ろから追い越した人たちに文句を言うつもりは毛頭ない。怒りもない。でも、悔しい。なぜなら、自分が写真を撮るか撮らないかに関係なく、「老人たちが一番に乗り込み、若いモンは後から乗る」という流れが実にしっくり来ていたからである。事実、宮古市内のとある停留所では高校生数人と老人数人がバスを待っていて、高校生の方が前に並んでいたにもかかわらず、バスが来ても高校生たちは直立不動のまま動かなかった。老人たちが後から追い越しながら全員乗り込んだのを確認してから、高校生が氷が解けたようにバスへと入っていく。
「並んでいる順番など関係ない! 老人が絶対優先! 若いモンは老人たちが乗り込むまで気をつけをして待て!」
 そんなふうに、村の掟で決まっているかのようである。だとすれば、私は写真が撮りたくて列から外れたのではない。その土地の圧力により写真が撮りたくさせられ、自然に列を追い出されたに違いないのだ。私は、法律に逆らって「どうだ!」と胸を張るようなバカではない。その土地の掟やしきたり、常識に逆らい、
「どうだ文句あるか? 文句あるなら法律で裁いてみやがれ」
 と挑発するのが好きなのである。
 それなのに、何の摩擦もなく、いつの間にか掟に従ってしまっていたとは、不…不覚。無…無念である。