あるきびとの岩手旅日記 -10ページ目

何でもかんでも動画撮影



 最近は歩行動画の撮影にハマっていて、調子に乗って選挙の投票に行くときにも動画を撮ってしまった。選挙というクソマジメなイベントと、デジカメ動画。そんなおちゃらけた組み合わせが見事ではないか。
 わずか5分の動画なので、しゃべりたいことすべては語りきれなかったが、この動画が少しでも何かの刺激になれば嬉しい。

使える記念モノ

 記念に残すモノとして入場券は嫌いだ、という話をした。それは、使わないことを前提としたアイテムだからである。
 しかし、旅行中に記念として買ったモノのなかで、まだ使えていないものがある。それは、バスの回数券だ。花輪線の鹿角花輪駅前で秋北バスの回数券を買ったが、その後秋田県と疎遠になり秋北バスに乗る機会がない。喜多方営業所で会津バスの回数券を買ったが、今では使う見込みすら立っていない。苫小牧営業所で道南バスのバスカードを買ったが、北海道への興味が薄れて道南バスに乗る気になれない。……
 それらの回数券は、一度も使われることなく机の引き出しの中に収まっている。だが使われない回数券が入場券と違うのは、「使おうと思えば使える」という点である。東京にはあるはずのない地方のカケラが、自分の家の机の中に眠っている。眠っているけど、死んではいない。いつでもそのふるさとに赴いて、どうじゃあ! と券片をちぎることができる。生きた記念物だからこそ、そんな想像も働かせることができるのである。

入場券がわからない

 マニア好みの古い車両がみられるような駅にいると、たまに撮り鉄がやってくる。撮り鉄は写真を撮るだけなので鉄道会社の収益にならない。そこで、彼らもそれでは申し訳ないと思うのか、駅で入場券を買い求めることがある。
 入場券というのは、その名の通り、入場するための切符である。駅の改札内に入るが列車には乗らない場合にこれを購入する。しかし、実際に入場の目的で入場券を買われることは少なく、ほとんどが記念目的、コレクション目的だ。鉄道会社側もそれをわかって、硬券タイプの入場券だとか、その路線のすべての駅の入場券のセットだとか、完全にマニアをあてにした入場券を発売する。
 私は、この入場券とやらが嫌いだ。
 そもそも、入場券は入場するためのモノ。入場するつもりがないのに入場券を買って、入場しないまま家にもって帰るなんて変じゃないか? 記念に残したいのなら、普通に切符を買って列車に乗り、使用済みの切符を駅員さんに訳を話して持ち帰らせてもらえばいい。そうすれば、生きた記念として切符が自分の手元に残る。最初から使うつもりのない入場券なんて、ただの紙切れを「これは全く役に立たないが貴重な品なのだ」とうやうやしく渡されているようなものではないか。
 そんな入場券を、ありがたそうに集めている人の心理がよくわからない。私は鉄道が好きだが、鉄道好きの気持ちはよく分からない。

箱根は良いと決まっておる

 家族旅行で訪れ、ガッカリした観光地の代表といえば、なんといっても箱根である。
 箱根はヒドイ。あれはまるで、多彩な乗り物を乗り比べるためだけの旅行だった。山や湖があるといっても、特別に美しいわけでもない。東京から近い有名観光地のせいか人が多くて、登山電車に乗るために列に並んで30分待ちとか、これじゃあ東京の雑踏と何も変わらないではないか。
 だが有名な観光地にとって、人が多くて混雑することや、美しい風景が見られないことはどうでもいいことなのである。なぜなら、観光地は「すばらしいところ」だからだ。「キレイな自然が味わえるところ」だからだ。訪れた人がそう感じるという意味ではない。最初から、そういう場所だと決まっているのである。つまり観光地は、訪れた者がその土地を五感で感じようとしなくても、「あなたは今、大自然に包まれています。日常から離れて癒やされています」と、ガイドブックや観光スポットが教えてくれる、大変便利な場所なのである。自分一人で異郷の地を感じる自信がない人にとっては、観光地は手頃な娯楽になるだろう。箱根なんて、乗り物を乗りついでいくだけで楽しんだ気になれるから尚更だ。
 箱根が私に与えてくれたのは、観光地のつまらなさ、それ一つである。観光地が嫌いになってからは、ただの無人駅に降りて駅周辺を歩き回ったり、田舎のコミュニティバスに乗ってみたり、廃道を歩いたり、山奥の集落をめぐってみたりして、自分だけの力でその地を感じることができるようになった。もし、あのとき箱根へ行ってウンザリしてなかったら、私はもうすこし観光地に寛容になっていたかもしれない。良くも悪くも、箱根は偉大である。

旅行が好きだから観光地はいらない

 私は観光地が嫌いである。
 小さい頃、家族で旅行に行くとなると、行先は決まって観光地だった。まぁそりゃそうだろう。ガイドブックに載っている湖や山や温泉街に行くことはあっても、リアス式海岸の半島を歩いて一周したり、岩泉町の山奥の集落を訪れたり、そんなマニアックな家族旅行はありえない。幼い日の自分は、観光地めぐりをするなかで、観光地の汚い部分、穢れた雰囲気を感じていた。そして、一人で旅行するようになってからは、観光地を頑なに拒否し続けている。
 旅行の楽しみは、異郷の土地に広がる自然や街並みを味わうことにある。だが、純度100%の自然は観光地になりえない。なぜなら、観光客が金を落とす場所がないからである。金を落とす場所がなければ、そのスポットを宣伝することもできない。宣伝されないから人は来ない。観光地を成立させるためには、観光客が金を落とせる箱作り、そして観光客がスムーズに流れてこれるようなルートを整えなくてはならないのである。つまり、単に素晴らしい自然が残っていたり、素朴な街並みが残っているだけでは観光地になれず、その自然や街並みを改造することで、観光地としてデビューすることができるわけだ。だから、本当にその土地らしい素晴らしい風景は、決して観光地にはない。観光地ではないところを探してこそ、本当の異郷が自分のなかに染み込んでいくのである。

旅が好きだから駅弁はいらない

 私は駅弁が嫌いである。
 鉄道好き、旅行好きであれば、駅弁を否定することはありえない。そんなイメージは確かにある。だが私は、駅弁を食べるくらいならコンビニやスーパーの弁当の方がいい、と思う。小さい頃の家族旅行では、駅弁を列車の中で食べる、なんてシーンもあったが、駅弁だからといって別に美味しいわけではなかった。駅弁は高いし、添加物の宝庫だし、旅行者に媚びてるし、ひとつもいいところなんてない。
 そんな欠点だらけの駅弁が生き残っているの何故なのか。それは、駅弁はブランド品だからである。それ以外の理由は何もない。駅弁はいくらまずくても、食らうものに「駅弁を食べた」という勲章を与える。旅行記ひとつ書くにしても、駅前のコンビニで弁当を買って食べたではサマにならないが、駅弁を食べればそれだけで大きなネタになるだろう。駅弁の価値なんて、所詮そんな程度のものだ。
 私は観光地へ行かないし、駅弁も食べない。旅行としてブランドになるようなものを、ことごとく拒んでいる。だから、旅行に出かけたってマトモなネタなんかもって帰れない。旅行の話をココで披露するのは楽しいけれども、決して、誰かに共感してもらえることを期待してはいない。

新作動画披露!



 鷺ノ宮駅から都立家政駅、若宮交番、大和町を経て環七に出て、その後妙正寺川沿いに歩いて鷺ノ宮まで歩く。デジカメで撮影しながら道中のスポットを紹介したり、ツッコミを入れたりと楽しい動画撮影だった。一人でしゃべりながら撮っているのでたまに「ん~?」という顔で見てくる人もいるが、すぐに慣れてしまう。家の近所にも面白いものはたくさん隠れていることに気付いたので、次回の撮影もまた楽しみだ。

人口密度こそ重要

 まだ、市町村合併の波は収まっていない。最近の例でいうと、岩手県の川井村が宮古市に吸収合併され、宮古市がバケモノみたいにでかくなった。また、小さな町や村が合併して市になったり、市が周辺の弱小市町村を併合して政令指定都市になり上がったりしている。
 そこで提案なのだが、市に昇格するのも、指定都市と認められるのも、人口ではなく「人口密度」で判断したらどうだろう? 小さな町や村が集まったからといって、その地域が発展したわけじゃないんだし、小さな町や村をのみこんだ市だって、ただ面積が広くなっただけだ。だから、人口を増やしても人口密度を増やさなければ認められないシステムをつくって、安易な合併を防ぐのである。周辺の町や村を吸収したら、人口密度が下がってしまい、もともと市だったのに町に降格しちゃいました~、なんてことが起こったら実におもしろい。

バス停論

$あるきびとの岩手旅日記

 この写真は、野田村営バスのバス停ポールを写したものである。野田村営バスとの出会いは2008年秋、和野平(わのたい)から間明(まみょう)まで利用したのが始まりである。その頃の各バス停は、さび付いた丸板を今にも倒れそうな棒で支えた情けないポールばかり立っていた。利用すればするほど情けない気分に沈み込むようなバス停風景であった。
 その後の2009年夏、再訪してみると状況が変わっていた。古いポールが撤去され、代わりに写真にあるような、色鉛筆を模したポールが全バス停に立てられていたのである。コミカルでかわいらしいデザインがとてもいい。バス停ポールが古いままでもバスの運行には支障がないけれど、バス利用の拠点であるバス停にテコ入れをした野田村に拍手を贈りたい。
 でも、おしい。新しいポールに替えたのはいいのだけれど、少しデザインが奇抜すぎるのである。バス停のポールは、丸い板と一本の棒で構成されているというイメージがあるから、その相場からあまり離れない方がいい。初めての人だと、うっかりコレがバス停であることに気付かずに通り過ぎてしまう可能性がある。面白いバスポールを設けたのはいいのだけれど、それと同時に、「バス停らしいオーラを放てるバスポール」でなければならない。
 地域の風に吹かれてフラフラ漂う路線バスであるからこそ、細かいところに気をつかう必要があるのである。

悪を許すのも悪

 力士が賭博をやっていたというニュースが、連日のようにテレビや新聞を騒がせている。さらに、賭博を反省して名古屋場所を中止するとかしないとか、実に日本人らしい展開である。
 だが、なぜ力士を厳しく処分するという方向へ向かうのだろうか。たしかに賭博は法律で禁止されている。法律違反を見逃すわけにはいかない。しかし、悪いのは力士ではなく、賭博の胴元をやっていた暴力団の方だろう。相撲界は暴力団のエサ場になっていただけで、被害者なのである。それなら、自分たちの中で小さな傷を咎め合うのではなく、一致団結して暴力団排除に乗り出すべきではなかろうか。
 暴力団は悪いやつらだから仕方ない、なんてあきらめて、自分たちで責任のなすりあいをしているうちは何の解決にもならない。

※ 暴力団は消えろ。鵜の巣断崖(岩手県田野畑村)の崖の上から落ちて海の底へ沈んでしまえ。