の25年の戦いの紹介が終わりました。
本当に「戦ってきた」25年だったなあ
と思います。
最初は世間の冷たい目と戦っていたよう
な気がします。
「あいつら勝つためにお金で集められち
ゅうがやき、勝って当たり前。」
こんな声がいっぱい聞かれた時代です。
「勝つ」って言っても「高知県で勝つ」
っいうレベルの話しですよ(笑)
まあ評判の悪いチームでした。
また、一番の長くて厳しい戦いは、オー
ナーとの戦いだったんでしょうね。
常に側にいて、わがままで、子どもがそ
のまま大人になった感じ。
ご飯さえ自分の好きなものを注文出来な
い、食べる量まで決められる(笑)
けどオーナーなので、言うことを聞かな
いわけにはいかない。
私はその中でも相当楯突いていた選手で
したが、けれど一番長く側にいた選手に
なりました。
一番濃い関係だったのは杉本さんでしょ
う。
いろいろな場面に常に側に居て、調整役
をやっていましたから、今でも表沙汰に
出来ないようなやり取りの場面もあった
ことだと思います。
1日のブログはそれぞれ思い入れがある
ようで、普段シェアなんかしない連中が
シェアしてくれていましたし、西村君や
森澤君は二人しか知らないエピソードを
コメントしてくれていました。
「闘犬センター」には私も知らない、面
白いエピソードがまだまだ眠っているよ
うです。
西村君は杉本さんや私が作ってきた
「闘犬センターという大ブランド」
と言ってくれていましたが、あえて大ブ
ランドと言わせてもらえば、それを作っ
た大きな要因は
「西村信紀という大投手」
の存在なくしてはあり得ません。
勝って勝って勝ちまくった結果、一つの
ブランドになった。
それには西村というピッチャーの存在は
大きかったということでしょう。
ただそれも25年間という時間が必要だ
ったということで、初期に所属していた
連中に始まり、多くの選手が一生懸命に
ソフトボールをやっていました。
いろんな奴がいました。
一般常識に欠けるやつ、漢字が読めない
やつ、アルファベットが読めないやつ、
オーナーがこんな出来の悪い選手が好き
なので、面白い選手も多かったです。
ソフトボールでは活躍はしていない選手
もたくさんいましたが、そんな選手の存
在があって、25年間やってこられまし
た。
なにせ高知の田舎のクラブチームです。
選手層は非常に薄い(笑)
トヨタ自動車なんかの実業団勢と試合前
に整列すると、相手の選手は倍以上いる
なんてことはざらでした。
こんな時に出る言葉は、
「数はようけおるねや。」
「何人か貸してくれ。」
相変わらずの口の悪さです(笑)
この相手に勝つという「反骨心」が、私
たちのエネルギーでした。
最初は本当に馬鹿にされたんです。
強くなってからしか知らない人は信じら
れないかもしれませんが、「闘犬センタ
ー」に対して
「上から目線」
で発言する人がいたんです(笑)
そんな人とは徹底的に戦いましたけどね。
振り返ってみると、よくこんなことやっ
ていたなと思うことも多いです。
たいした実力もない私がその中に、それ
もその中心に長く居たのが不思議でなり
ません。
昔トヨタ自動車の田中誠一先輩に言われ
たことがあります。
「ヒロシがおる時と、おらん時は、闘犬
の雰囲気が違う。」
あの闘犬センターのガラの悪さは、私が
作ってきたものだったんでしょうか?
私はオーナーが作ったと思っていました
が、オーナーは試合してないですもんね。
けど1年目、バットを持って観客を追い
かけて行ったり、野次った相手と喧嘩し
ていたのは誰あろうオーナーですからね。
私たちはそれを呆然と見ていたんですか
ら。
素直な18歳だった私が、それを受け継
いで行ったということでしょうか。
それからすると今の選手は、みなさん好
青年です。
反省しました。
今日はここまでにしますね。
