それではどうぞ。
-------------------------------------
第45号のメニューはこちらです。
■平成6年
■編集後記
------------------------------------
■平成6年
------------------------------------
平成6年は1月16日の高知新聞に、
2月にフィリピンで開催される第5回
アジアソフトボール男子選手権に、闘犬
センターから7名の選手が選出されたと
いうことが紹介されています。
そしてこの大会にはトレーナーとして私
が帯同することになりました。
この頃の全日本の中心選手は闘犬センタ
ー勢が占めていました。
次は1月29日の恒例行事、「高新スポ
ーツ賞の顔」の記事になります。
「今までの歴史が輝かしいものであれば
あるほど、後に続く者のプレッシャー
はきつい。」
「昭和59年3月まで指揮を執った田中
規夫監督を第一世代とすれば、杉本前
監督や旧チームの主力選手たちは第二
世代。」
「そして家竹監督らは第三世代である。」
「世代交代元年。」
「さまざまな課題を抱え、チームには危
機感があったが、ひとまず結果は出し
た。」
「これに満足せず、新たな時代を築ける
か どうか、真価を問われるのはこれ
からだ。」
と期待感を持って紹介されています。
監督は家竹を印象づける記事ですね。
これが事件の端緒になるんですけど・・
この正月闘犬センターに呼ばれた私は
オーナーから、びっくりするような話を
聞かされます。
「日本リーグの監督は家竹で行くが、
国体の監督はお前がやれ。」
「はい?何を言っているんですか。」
「全部家竹監督でええじゃないですか。」
「国体はいかん。お前がやれ。」
「船に船頭は二人いりませんよ。船頭が
二人おったら船は沈みますよ。」
結構抵抗しましたが、このオーナーの話は
オーナーが言う通りにならないと終わりま
せん。
そんなことは百も承知でしたので、最後は
納得はしないものの、そんな形で今シーズ
ンは行くことになってしまいました。
ただこれが事件になるのはもう少し後のこ
とになります。
2月11日からはアジア選手権の事前合宿
が春野運動公園で開催されます。
そして出発前の23日高知県教育委員会の
教育長に出発の挨拶と、オーナーの思惑通
りのセレモニーを終えて、アジア選手権に
出発しました。
この頃の日本はアジアでは頭一つ抜けてい
るという感じでしたので、優勝して帰って
当然という気持で臨んだ大会でした。
気を付けなけらばいけないとしたら、地元
フィリピンでした。
試合は予想通り
台湾を13-1(5回コールド)
マレーシアを12-0(5回コールド)
フィリピンを3-0
シンガポールを17-0(5回コールド)
タイを11-0(5回コールド)
として、予選リーグを全勝で通過します。
迎えた決勝トーナメントでも
フィリピンを2-1で退け、決勝進出。
敗者復活戦を勝ち上がったフィリピンと
三度対戦し4-0で下して優勝します。
この大会のMVPは西村投手でした。
アジアNO.1のピッチャーの座に君臨した
大会でした。
帰国した後は、いよいよ日本リーグの戦
いが始まりました。
第一節は栃木県那須町で開催されました。
初戦は山形県庁戦でした。
好投手大村投手相手に苦戦しましたが、
1-0で勝って白星発進となりました。
この後この年1回目の事件が起こります。
試合後に高知新聞から取材の電話があっ
たのですが、家竹監督はどこにも居なく
て私が変わって出ました。
そしてこの取材がそのまま新聞に掲載さ
れてしまいました。
内容は
「勝つとしたら1-0と思っていたが、
その通りの試合ができた。」
と闘犬センターの山崎総監督。
山崎総監督は
「昨年の失敗がいい薬になっている。」
「投打の歯車もかみ合っていたし、上々
のスタートです。」
と話していた。
この山崎総監督のコメントがいけなかっ
たんですね。
翌朝この記事を読んだオーナーから、
家竹監督に電話がかかってきます。
「闘犬の監督はお前やろうが。」
「どうなちゅうがや!」
家竹監督は知らない話ですが、朝から
ガミガミ言われて気分がいい訳がないで
すよね。
私も家竹監督のコメントとして載せちょ
てと言えばよかったんですよね。
この日は日新製鋼に延長10回2-3で
サヨナラ負けしてしまいます。
この事を伝える高知新聞には、家竹監督
のコメントが掲載されています。
家竹監督も私も今日はオーナーの機嫌を
損ねることのないようにと気を使った結
果でした。
闘犬センターは第一節を3勝1敗の2位
で終わり、第二節に備えていました。
そこで2つ目の事件が発生してしまいま
す。
この年家竹監督は仕事の関係やなんかで、
あまり練習には参加していませんでした。
事件のあった日曜日も練習開始時には、
家竹監督の姿はなく、私の指示で練習は
進んでいました。
そこに遅れて家竹監督が参加してきた訳
ですが、流れもあって私の指示で守りの
ポジションを変えたりしてやっていまし
た。
すると家竹監督が突然、
「誰が監督や!」
と捨て台詞を吐いて帰ってしまいました。
「なんやねん、いっつも来んくせに。」
「今日やち、遅れて来たろうが。」
と思いながら、そのまま練習をやりまし
た。
それから数日後のことでした。
家竹監督が選手全員に
「お前はどっちの味方や?」
と電話を入れて確認したとの情報が私の
耳に入ってきました。
これはいけない。私の存在がチームの邪
魔になるようなら、辞めようと思いまし
た。
昭和53年から17年もやってきました
から、やり残したこともありませんでし
たし、良いきっかけになるとも考えまし
た。
田中規夫さんも杉本さんももう居ません。
心残りは全くなかったのですが、さてど
うやって辞めようかということになりま
した。
長く闘犬センターでソフトボールをやっ
て、すんなり円満に辞められた人を見た
事がなかったですし、ちょっと考えまし
た。
直接桂浜に行っても会ってもらえずどう
しようもなかったなんて場面は、私が
一番近くでたくさん見てきましたから、
違う方法にしようと思いました。
そこで段ボールに手元にあったユニフォ
ームと手紙を入れて、宅急便で送りつけ
てやりました。
「私は家竹と権力闘争をするつもりはあ
りません。」
「だから言ったでしょう。」
「チームに船頭は二人入らないって。」
みたいな内容の手紙だったと思います。
オーナーは相当怒っていたそうですが、
こうでもしないとまた引き戻されてしま
いますので、判断は間違っていなかった
と思っています。
もうあの面倒臭いオーナーのわがままに
付き合わなくていいという開放感は、こ
の上ないものでしたが、選手に余計な負
担をかけてしまったことについては、少
し反省もありました。
これで一件落着と思っていましたが、こ
とはそう簡単にはいかなかったんです。
この続きは次号でご紹介したいと思いま
す。
今日はここまでにしますね。
------------------------------------
ここまでが事件の前半といったところで
しょうか。
これで終わらないのが闘犬センターオー
ナー弘瀬 勝の面倒臭いところです。
まだまだ事件は解決とは行きませんでし
たが、それでも試合は続いていました。
来週の日曜日の更新をお待ちくださいね。
早く読みたい方は、まぐまぐで
「ソフトボール日本一への道」
と検索して、読んでください。
写真はアジア選手権でトレーナーをして
いる時のものです。
時々プレーにアドバイスをする変わった
トレーナーでした。
選手の中には監督やコーチではなくて、
私にアドバイスを求めてくる選手がい
たので、仕方なく口を出していたんで
すけどね(笑)
