メールマガジン(46) | ソフトボールを愛する人にお届けするブログ

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日曜日恒例のメールマガジンの紹介で
す。

平成5年はいったいどんな年だったん
でしょう。

私にとってもいろいろなことがあった
シーズンだったようです。

それではご覧ください。

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第42号のメニューはこちらです。

■平成5年
■編集後記

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■平成5年
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平成5年のシーズンになりました。

この年も恒例となった

「高新スポーツ賞の顔」

で始まっています。

見出しは

「勝ちながら育てる」です。

何と闘犬センターが基本練習の大切さを
重要視しているという内容になっていま
す。

杉本監督は

「基本なくして応用なし。」

と言っていますし、
弘瀬拓生さんは、

「これほど基本練習を繰り返すチームな
 んて、他にはありませんよ。」


と言っています。

少ない練習日と練習時間のほとんどを、
基本練習で費やしていたということでし
ょうか。

この年には、高校生2人、大学生2人が
新加入してきました。

「2,3年のうちに若手が伸びてこない
 ようだと、うちのチームも危ない。」


「今年1年は若いのをみっちり仕込みま
 す。」


としています。

この年加入の若者たちが、この後チーム
の中心選手となっていくことになります。

さて試合の方ですが、4連覇を目指して
日本リーグが始まりました。

ただ、そこに杉本監督の姿がありません
でした。

オーナーともめてチームを離れてしまっ
っていたのです。

そこで私に監督代行をやれとの指示があ
りました。

監督不在で始まったチームは、何と開幕
2連敗という最悪の成績になってしまい
ます。

開幕戦となった「日新製鋼」戦は、テレ
ビの取材もあってよそ行きの上品な試合
をしてしまって、ほぼ無抵抗のまま完封
されてしまいます。

2戦目の日本電装戦も守りのミスが出て
2-3で競り負け、試合後開幕2連敗して
しまった監督代行の私のことを心配した
選手が、私のいないところで緊急ミーテ
ィングを開いてくれていました。

私の監督として能力不足であることは
自分が一番分かっていましたので、私
自身はそんなショックでもなかったん
ですけどね。

まして私は勝てないころの「闘犬センタ
ー」
を知っていますので、大丈夫だった
んです。

どうやって雰囲気を変えようかだけを考
えていたような気がします。

3戦目の埼玉県庁戦で初勝利をあげると、
その後は絶対的大エース西村投手の力投
もあって、成績は伸びていきました。

第2節を全勝で乗り切って、通算成績を
5勝2敗として5連覇の可能性を残して
第3節を迎えることになりました。

ここで朗報があって、杉本監督が復帰す
るとの情報が入ります。

オーナーが何とか説得して高知で開催さ
れる第3節の指揮を取ることになったの
でした。

地元高知での第3節は精神的な支えとな
る杉本監督も存在もあり、4戦全勝で終
了して4連覇をほぼ確実としました。

地元開催でありながら、仕事の都合で3
人もの主力を欠いての戦いになりました
が、ルーキーの岡本、江口の二人が活躍
するなどして、何とか乗り切っています。

そして迎えた9月の第4戦は、愛知県
犬山市での開催でしたが、前節復帰した
杉本監督がまた不在で、再び私が監督
代行で臨むことになりましたが、これも
慣れた選手たちのプレーに影響を与える
ことはありませんでした。

結局第4節も全勝して最終成績を12勝
2敗として、4連覇を達成します。

監督代行の私もホッとしたようで、高知
新聞の取材に対して、

「スタートでのつまづきが、結果的には
 いい薬になったのではないか。」


「とにかく優勝できて肩の荷が下りまし
 た。」


とホッとした口ぶり。

「ベストナインに西村しか選ばれていな
 かったように、個人としては大した成
 績ではなかった。」


「それでも連敗スタートから後を全勝で
 乗り切れたのは、全体のまとまりが
 良かったということだろう。」


「全員で勝ち取った優勝との思いが強い。
 いいムードを国体にそのまま持ち込みた
 い。」


と結んでいます。

この後東四国国体になるわけですが、国体
の話は次回に詳しくご紹介したいと思いま
すので、今日はここまでにしますね。

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この時私は神奈川県の専門学校に行って
いて、高知県在住ではありませんでした
ので、国体の監督をすることは出来なか
ったんですね。

国体はいったいどんな体制で臨んだので
しょうか。

次号をお楽しみに!



この頃の私の姿です。若い!