
この写真は昭和60年に福島県飯坂市で
開催された
「第31回全日本一般男子」
の開会式の時のものです。
数えてみました。
8名しかいません(笑)
監督の杉本さんが別の場所に整列してい
ますので、全員で9名ですね。
後から誰か合流したんだと思いますが、
この大会雨で順延されて、仕事の関係で
何名か帰らなくてはいけなくなって、
キャッチャーの大館さんも帰ろうとした
のを、
「あんたは帰ったらいかん!」
と無理やり止めた記憶があります。
決勝戦はベンチに10名しかいなかった
のは間違いないので、この開会式の後に
誰か合流していたんだと思います。
闘犬センターは常にこのような感じでし
た。
これがクラブチームのつらさですし、人
気のなかった闘犬センターでソフトボー
ルをやろうなんて思ってくれる選手も、
多くなかったのもこの8名の入場行進の
原因でしょうか。
長期的な戦略を立ててのチーム強化など
あるはずもなく、それこそオーナーの
思いつきと、特異な嗅覚とでも言えばい
いのか、どこかから変わった選手を連れ
て来るという、行き当たりばったりのチ
ーム編成でした。
杉本さんは初代監督の田中規夫さんが高
校時代に指導していた縁で、闘犬センタ
ーが最初に全国大会に出場した時に、規
夫さんに挨拶に来ただけだったのが、オ
ーナーに会ってしまったことで、トヨタ
から帰ってきました。
同じく誘われたものの帰って来なかった
のが「田中誠一さん」でした(笑)
家竹選手は高知商業野球部時代に不祥事
を起こして、出場停止処分を受けた張本
人でした。
あれがなければそのままどこかで野球を
続けていたんでしょうけど、この事件を
報道していたテレビを見ていたオーナー
が、当時の監督の発言に対して
「あれはいかんろう。」
「家竹はワシが面倒をみる。」
と言い出したことがきっかけでした。
当時のキャプテンの松田純夫さんは、高
知商業のOBで野球部にも出入りしていま
したので、早速松田さんに連絡を取り、
家竹選手のお母さんに連絡をして、土佐
清水市まで出掛けて行きました。
相手が誰であろうと、どんな環境であろ
うと決めたら即行動というのが、このオ
ーナーの特徴でしょうか。
後先のことはそんなに考えていないと思
いますが、走りながら考え、ひどい時に
は理由や、理屈は後からこじつけるみた
いなものもありました。
ですから、理由や説明を聞いてもよく分
からないということもありました(笑)
こんなやり方でしたので、振り返ってみ
ると、よくこんな選手が集まったものだ
と思わなくもありせん。
まあ、最初からすごかったわけではなく
て、全国というステージで戦って行くう
ちに、だんだん力をつけていったという
感じでしょうかね。
杉本さんがトヨタから帰ってきて、闘犬
センターの練習を見た時の感想は、
「下手くそなチームやな。」
でしたので(笑)
この「下手くそなチーム」がだんだん洗
練されて「日本一」になっていき、場数
を踏むことによってさらに強くなるとい
う好循環を生むことになりました。
これも続けていたから起こり得た現象と
いうことだと思います。
今日はここまでにしますね。