早いメールマガジンになります。
出張の合間にソフトボール関係者にも
お目にかかる予定ですので、それはまた
ご紹介したいと思います。
それではどうぞ。
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第34号のメニューはこちらです。
■昭和64年
■編集後記
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■昭和64年
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昭和64年のシーズンを見てみましょう。
この年もいつものように
「高新スポーツ賞」
受賞の記事から始まっています。
昭和63年は国体を含めて全タイトルを
独占しましたので、満場一致での選出だ
ったそうです。
受賞者を紹介する
「高新スポーツ賞の顔」
では次のように紹介されています。
「時として互いに反目し合うほどの、各
メンバーの我の強さ、あくのきつさは
相変わらずだ。」
「並みのチームなら間違いなく空中分解
してしまうだろう自己主張の激しさを、
この集団は『常勝』へのガソリンに変
えてしまう。」
「実力選手ぞろいの個性派軍団は、そん
なエネルギーで日本男子ソフトボール
史上初の年間全タイトル制覇の偉業を
いともやすやすとやってのけた。」
「昨年10月末の日本選手権決勝。ふだ
んと全く変わらない表情でグランドに
散ったナインは、優勝が決まっても、
快挙を誇る歓声をなければ、胴上げも
ない。」
「ナインは勝って当たり前という顔で
引き上げてきた。」
「杉本監督の話しも淡々としたものだっ
た。」
「一つのゲーム、一つのシーズンが無事
に終わった。」
本当にこの頃から勝っても喜ばないとい
うか、嬉しくないという感じになってい
ました。
試合を見ていた方から、
「闘犬さんはすごいですね、勝っても
喜ぶどころか当たり前みたいな感じで
すね。」
と言われるんですが、嬉しくないので
喜んでいないだけなんですけどね。
日本ソフトボール協会の会長のオーナー
からは、
「勝て!」
と言われます。
この頃の口癖は、
「ワシは日本一のチームを持っている
会長じゃ。」
でした。
ですから常に勝って「日本一」でなけれ
ばいけなかったので、勝っても
「嬉しい。」「やった!」
ではなくて、
「終わった、終わった。」
が正直な気持ちでした。
また前号でご紹介しましたように、ニュ
ージーランド武者修行で大エースに成長
した「西村投手」ばかりが目立つ試合ば
かりになりましたので、それは面白くな
いんですね。
何でもかんでも「西村」「西村」
「西村」が投げて、「西村」が打って
勝った試合なんて、それはやってられな
いといった感じです。
そうなると何の罪もない「西村」いじめ
が始まります。
「勝ってにやれや。」
「一人でやったらええわや!」
一生懸命投げているだけの西村投手には、
酷な言い方でしたね。
ただのやっかみだったのに(笑)
そして記事は田中雄二選手と佐竹選手の
引退を紹介して、
「新しいチャンスをもらう若い選手が、
自己主張の輪の中に加わってくるはず
だ。」
締めくくっています。
新人を加えて新しいシーズンを迎えよう
とした時に、日本ソフトボール界をひっ
くり返すような大事件が起こりました。
高知新聞5月1日付けの紙面には次のよ
うな見出しが踊っています。
「闘犬センター1年間試合禁止。」
「二重登録問題で処分」
昨年の全タイトル制覇のチームが、1年
間出場停止処分を受けるなんて、闘犬セ
ンターしか出来ない離れ業です。
これは少し説明しなければ分からないと
思いますので、説明しますね。
昭和63年の世界選手権に出場した家竹
選手が、大会前の練習試合でデッドボー
ルを受けて骨折、結局世界選手権には出
場出来ませんでした。
そして帰国後の試合にも出られないとい
うことになって、日本ソフトボール協会
の会長で闘犬センターのオーナーでもあ
る弘瀬勝氏は、
「試合に出られないのは、世界選手権の
時のデッドボールのせいであり、その
人的補償をしろ。」
と言い出したわけです。
「??????」
出られないのだから、誰かかわりの選手
補欠の選手が出ればいいだけのことでし
た。
当時の西村投手であれば、誰か守ってい
ればたぶん大丈夫でした。
ところがオーナーはその人的補償として
翌年入部が内定していた高校生を出場さ
せようとしました。
なぜこんなことを言い出したかは、本人
しか分かりません。
この高校生を出場させてしまったので、
「二重登録」として処分されることにな
るわけで、チームも出場停止でしたが、
オーナー本人も会長の座を失うことにな
りましたので、この判断は大きな判断ミ
スだったということになりました。
この件については、私たちは驚くととも
に、怒りを持って受け止めていました。
確かに高校生を出場させたことは間違い
です。
けれど、それは私達が勝手にやったこと
ではなくて、理事会を通して決定してや
ったことであり、それを今更問題として
取り上げて、弘瀬勝を会長から引きずり
降ろす権力闘争に巻き込まれたと思いま
した。
チームは「被害者」みたいな感覚でした。
オーナーが勝手に連れてきた高校生を
使わされて、勝てと言われる。
私たちはそれでも勝った。
この件で新たに権力を手に入れた奴らは
敵でした(笑)
この方たちをこの年の国体で攻撃(口撃)
することになります。
これは今年分かったことですが、この
高校生を人的補償として大会に出場させ
るという案件は、どうも理事会で承認を
得ることなく、会長の鶴の一声で決まっ
たことのよううです。
その当時のスタッフもいなくなり、確定
ではないそうですが、当時の日本ソフト
ボール協会内で、会長の言うことに対し
て異議を唱えることが出来る人はいなか
った。
会長も自分の言うことは絶対だと思って
いた。
それが招いた悲しい結末だったようです。
で、翌年になってこれが一部の理事あた
りから問題提起され、最終的には会長ほ
か理事23人が総辞職するという大事件
になっていきます。
ただその後22名の新理事会には旧理事
会のメンバーが18名も残ったことから、
誰かが画策したクーデターであったかの
ようなイメージを私たちは持ってしまっ
ていました。
さて、1年間の出場停止処分でしたが、
この効力は日本ソフトボール協会主催の
大会と日本リーグだけで有効なもので
あって、日本体育協会主管の国体には
出場できるというものでした。
これにはものすごくモチベーションが上
がりました。
日程的にも楽でしたし、仕事場に迷惑を
かけることも少なかったので、全員目の
色を変えて国体出場を目指しました。
この国体だけにかけるという好条件の結
果、チームを離れたはずの田中雄二選手
と佐竹選手も合流して、当時のベストメ
ンバーで国体予選に出場して、見事国体
出場を決めることが出来ました。
これは久々に嬉しい勝利でした(笑)
これで意気揚々と国体開催地である北海
道に乗り込んでいくわけですが、この戦
いはそう簡単なものではありませんでし
た。
少し長くなりましたので、この続きは
次号でご紹介したいと思います。
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いろいろなことを引き起こすのが、闘犬
センターの十八番でしたが、この事件は
なかなかの事件でした。
日本一のチームが出場停止なんて、あり
得ませんよね。
そこまでして日本一になりたいのか?
いえいえ、そんなことしなくっても勝っ
てましたよ(笑)
闘犬らしいというか、闘犬にしか出来な
い出来事でしたし、せっかくの優勝を汚
すことになってしましました。
これが出場停止を伝える新聞記事になり
ます。
