闘犬センターは強かった?(3) | ソフトボールを愛する人にお届けするブログ

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1983年日本選手権初優勝の時の胴上げの
様子です。

この頃くらいじゃないでしょうか、優勝
して本当に自ら進んで胴上げしたのは。

この優勝は嬉しかったですし、則夫さん
を胴上げ出来て本当に良かったと思った
ことでした。

則夫さんはこのシーズンで監督を杉本さ
んに譲りましたので、最初で最後の

「実力日本一の胴上げ」

になりました。

さて、この田中則夫さんの作り上げた

「豪打の闘犬センター」

は、杉本さんが高知に帰ってきた頃の
言葉を借りると、

「下手くそなチーム」

でした。

極端な言い方をすると、

「8点取られるかもしれないが、
 10点取れる攻撃力がある。」


チームでした。

投手を中心とした守りが整備されていな
いので、不安定なんですね。

チームも選手も若い、これが良い面と
悪い面と両方しっかりありました。

勢いがつけばもう誰も止められないほど
の連打が続くかと思えば、簡単に失点も
していました。

それが全国大会で安定した成績を残せる
ようになった要因は、やっぱりピッチャ
ーだと思います。

第2期を支えた「エース西村」が登場す
るまでは、絶対的なエースの存在はなく
て、複数のピッチャーを使い分けるとい
う形で戦っていました。

田中睦三さん、別役さん、私などですね。

第1回のクラブ大会は別役さんと私が2
試合ずつ投げて優勝していますし、その
後は私と清水さんの二人が競争していま
した。

私なんかはまともに使える変化球はない
ピッチャーでしたので、生きる道はコン
トロールとチェンジアップだけでした。

その唯一の勝負球のチェンジアップは
群馬の岡先生にいただいた、ニュージー
ランドのハリヒーというピッチャーの
握り方の写真1枚を参考にしたものでし
た。

今は小学生でも投げるチェンジアップで
すが、当時はそんなにポピュラーな球で
はありませんでしたので、これで結構
勝負することが出来ました。

初めて参加した日本リーグで初の完全試
合を達成した時くらいが完成型だったか
もしれません。

コントロールには自信がありましたので、
ボール半分くらいの出し入れは出来てい
ましたし、打てそうなボールですから、
バッターがすぐ打ってくれましたので、
投球数はとても少なくてすんでいました。

完全試合はおまけでしたが、日本リーグ
と一般男子の最小投球数の記録は自慢し
てもいいと思っています。

ただ、バットには当ります。

空振りの三振を取るボールがないんです
ね。

タイブレークでランナー3塁の時に三振
を取る事が出来ない。

写真の日本選手権の優勝投手になった
清水さんにはこのボールがありました。

新島学園、日本体育大学とエースを張っ
ていただけのことはあります。

ライズボール、ドロップもしっかり投げ
分けられました。

豪打に清水さんという安定した投手力を
獲得した闘犬センターは、全国でも安定
した戦いをすることができるようになり
ました。

それと経験でしょうか。

1894年からは日本リーグに参加する
ことになりましたので、負けても次があ
るリーグ戦を実業団と戦ううちに、負け
ない戦い方を身に付けていったんだと思
います。

最初は実業団と聞いただけでビビってい
たのが、いざ試合をしてみると戦えると
いうか、中には

「たいしたことない。」

相手も多くいることに気が付きました。

「やれる!」

単純な私達がそう思うのに時間は必要あ
りませんでした(笑)

これも間違いの始まりの一つでしたね。

今日はここまでにします。