
これは今から10年前の高知新聞の記事
になります。
「高知新聞 あのころの球児」
かなんかで検索したら出てくると思いま
すので、興味のある方は探してみて下さ
い。
一軍と二軍を行ったり来たりの生活を
続けていた頃を脱出して、一軍に定着ど
ころか、なくてはならない存在になった
頃の写真です。
先発では1回り目、2回り目は抑えるの
ですが、6回とか7回くらいになると
スタミナが切れてきて、打たれて降板と
いう形がよくありました。
この頃の阪神タイガースにはあまり良い
救援陣がいなくて、勝利投手の権利を持
って降板しても、その後同点になったり
逆転されたりもしていましたので、なか
なか勝利にはつながらないこともありま
した。
本人のスタミナが切れて打たれて敗戦投
手というのも、もちろんありました。
先日レンジャースを自由契約となって、
阪神タイガースに「先発」で復帰かとい
う話題に、元監督の岡田さんが、
「球児にはスタミナに問題があった。」
「それでセットアッパーにしたんだ。」
みたいな内容のコメントをされていまし
たが、まさしくこの事だと思います。
現在球児君と阪神タイガースがどのよう
な交渉をしているかなんて、知る由もあ
りませんが、見てみたいような気もしま
すね。
きっと良い答えを出してくれると期待し
て、発表を待ちたいと思います。

このチケットは球児君がプロでの初先発
の時のものです。
私もちょうど浜松に杉本さんと女子のク
ラブ大会に行っていましたので、ついで
に見に行くつもりで準備してもらったも
のです。
早々に負けるはずだったこのチームが
大躍進をして決勝戦まで進出したもので
すから、選手のケアをしなくてはいけな
くなってしまって、泣く泣く諦めたもの
でした。
チケットが二枚あるのは、野球を見に
行こうと二男を連れて行ってましたので、
約束を破った形になってしまって、子供
に謝った記憶があります。
結構レアなチケットなので、サインをし
てもらっておけば良かったと後悔してい
ます(笑)
その後もなかなか先発投手としては結果
が残せず、相変わらず故障も多いことも
あって、一軍と二軍の往復を続けていま
した。
もう後がないというところで出会ったの
が、当時二軍のピッチングコーチをして
いた
「山口高志コーチ」
でした。
「球児、後ろ足違うか?」
この一言が球児君の野球人生を変えます。
身長はあるものの、後ろ足がマウンドに
着くタイプでしたので、ボールに角度の
あるピッッチャーではありませんでした。
股関節が柔らかくて、他のピッチャーよ
りも歩幅が1足か1足半くらい広いこと
も影響していたかもしれません。
そしてピッチャーってそうは簡単に他人
のアドバイスを受け入れることはありま
せんよね。
まして球児君はエラそうに言われる、上
から目線で指示されることが嫌いでした
ので、なかなか変えることをしようとし
なかったんだろうと思います。
けれどこの時は誰かのアドバイスを素直
に聞ける精神状態だったんでしょう。
この山口コーチのアドバイスを受け入れ、
実践してみると、球速は上がり、ボール
に角度が出てきて、持ち味の下から上に
浮き上がるようなストレートが生きるよ
うになります。
これが後に
「ストレートという魔球」
とまで言われることになります。
ビジネスの世界では、
「何を教わるか。」
ではなくて
「誰に教わるか。」
が大事と言われることがあります。
まさしくこの阪急ブレーブスで剛速球を
投げていた山口コーチに教わったことが
球児君の野球人生を大きく変えた訳です。
一方西村選手は、何度もご紹介していま
すが、ニュージーランドでの武者修行が
人生を大きく変えることになりました。
これも西村選手が自ら希望して行ったも
のではありません。
闘犬センターの社長から行って来いと言
われて、一人で放り出された心細い旅だ
ったんだろうと思います。
言葉も文化も違う、まして世界一のソフ
トボールの国です。
周りは体のでかい屈強な男ばかりだった
でしょう。
その中で世界に通用する技術を見に付け
て帰国した後は、
「闘犬センターのエース」
「日本のエース」
そして
「アジアのエース」
まではなりましたね(笑)
これも「誰から教わったか。」が大きく
その後の人生に影響してきています。
西村選手は現在
「全日本の監督」です。
6月には世界選手権に監督として参加さ
れ、またその輝かしい経歴に新しい1ペ
ージが追加されることになるはずです。
頑張ってきてください!
今日はここまでにしますね。