
表彰式での私です。
結局闘犬センターでソフトボールをする
ことになるわけですが、その経過は
5月13日のブログ、
メールマガジン(25)で紹介しています
ので、そちらを見て下さい。
それから4年間のブランクはありました
が、闘犬センターの25年間を見届けた
唯一の人間になってしまいました。
先日西田選手から
「闘犬センターを1番愛した人」
とコメントをいただきましたが、闘犬
センターが一番染みついた男と言った方
がいいかもしれません(笑)
私が幸せだったのは、ソフトボールを
「お客さん」
でやらせてもらったことでしょうか。
もともと闘犬センターをソフトボールに
引き込んだきっかけを作ったのは、私と
同い年の井上選手(高知工業)や松下選
手(城山高校)でした。
ただ彼らは闘犬センターの社員という形
で、ソフトボールと仕事をしていました。
これは大変なことでした。
社長のわがままに1日中付き合わなけれ
ばいけませんし、口答えも出来ません。
そのストレスは大変なものでした。
ですから途中で辞めて行ってしまうこと
になってしまいました。
私の最初の勤務先は室戸市でしたので、
土曜日は闘犬センターに泊まって、試合
に行っていました。
夕方や朝は闘犬の犬引き(運動)も手伝
ったりしていましたが、それでもお客さ
ん扱いでしたので、それは他の同級生に
比べれば楽なものでした。
たぶん一番社長に文句を言ったのは私だ
と思いますし、怒鳴ったこともあります。
あの弘瀬 勝を怒ったなんて・・・(笑)
杉本さんもそれなりに、口答えもしてい
ましたが、杉本さんは社員でした。
何処へ行くにも杉本さんが運転手でした
ので、密着度は杉本さんの方が上だと思
いますし、社長も信頼も強いものがあり
ました。
けれどずっと一緒は耐えられないところ
がありました。
ずっとお客さんだった私ですら、限界を
感じて4年間逃げてしまったくらいです
からね。
この「お客さん」の立場が25年間もの
長期間、闘犬センターでソフトボールを
させていただいた大きな要因だと、私は
思っています。
設立当時の闘犬センターは、その企業
イメージもあったのでしょが、チームの
評判も良くありませんでした。
監督や選手は一生懸命ソフトボールを
やっていたんですが、世間では、
「あいつらはお金で集められた選手な
んで、勝って当たり前。」
みたいに言われていたこともありました。
お金をもらってソフトボールをしていた
ことはありません。
部費負担はありませんでしたし、飲食代
道具代、遠征費は闘犬センターが丸抱え
でしたので、それはとても有難いことで
した。
この負担がなかったことも、長くソフト
ボールができたことの大きな要因です。
でも評判は悪かったですね(笑)
夜街に飲みに出る時に、胸に「闘犬セン
ター」のネームが入っているジャンパー
なんかを着ている時には、そのネームが
見えないように隠して歩いていたなんて
ことがあったなんて、想像もできないで
しょう。
この頃のことを知っているメンバーは今
でも、自分から闘犬センターでソフトボ
ールをやっていたなんて言わないやつば
かりです。
他人から聞かれれば言いますけどね。
ですから初めのころは、闘犬センターの
ファンは県外の方が多かったです。
西村投手がエースに成長して、連戦連勝
になった頃からじゃないでしょうか、
「闘犬センターは強いですね。」
と県内で普通に言われるようになって、
少しずつ評判が良くなって行ったのは。
この逆境の時代を生きてきた私なんかは
より以上に、
「勝つ」
ことに執着するようになったのかもしれ
ません。
まあ、最初のころは勝ったり負けたりで
したし、下手くそなソフトボールをやっ
ていました。
トヨタ自動車から帰ってきた頃のチーム
の印象を杉本さんに聞いたことがありま
したが、その印象は
「下手くそなチームやな。」
でした(笑)
下手だったんでしょうね!
こんな時代から25年、四半世紀も闘犬
センターを名乗ってやっていたわけです
から、体に闘犬センターが染みついても
仕方ないですよね。
それも長く闘犬センターの中心に近い
ところにいたわけですから。
今日はここまでにしますね。
すみません、明日も続きます(笑)