「実力日本一」
の座を手に入れた後の出来事です。
どうぞご覧下さい。
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第20号のメニューはこちらです。
■昭和58年(その4)
■編集後記
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■昭和58年(その4)
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初の全日本ソフトボール選手権に優勝を
手にした後の、シーズンオフの出来事に
なります。
この翌年1984年には、アメリカで
世界選手権が開催されることになって
いました。
闘犬センター、オーナー弘瀬 勝氏は、
全日本ソフトボール選手権で優勝した、
闘犬センターを中心に、全日本が編成
されると思っていたと思います。
しかし、日本ソフトボール協会は違った
認識だったようです。
確かに優勝は闘犬センターでしたが、
これまでの実績という点では、準優勝に
終わった群馬教員の方が、多くの結果を
残してきていました。
協会内での発言権、存在の大きさという
点においては、弘瀬 勝氏がいかに大き
な声をあげようと、多勢に無勢といった
ところだったでしょう。
オーナーは全日本の監督に、優勝監督の
田中規夫さんをしたかったようですが、
その意見はなかなか通らなかったようで
す。
最終的に全日本の監督は、群馬の岡先生
で落ち着くことになります。
この駆け引きの中で事件は起こります。
オーナーは田中規夫さんと連絡を取りた
かったんですね。
まして、オーナーは
「規夫のために、わしは戦いゆう!」
くらいに思っているのに、連絡はない、
連絡しようにもどこにいるか分からない
といった状況になっていました。
この時は世界選手権のための選手選考会
みたいなものもなくて、いわゆるお手盛
りで、選手が決まるみたいなところがあ
りました。
ですから、優勝した闘犬センターと準優
勝の群馬教員を中心に、他から優秀な選
手を追加して、全日本チームを編成する。
優勝を盾に言い分を通そうとする闘犬セ
ンターと、実績を盾にそれを阻止しよう
とする群馬教員との、別の意味での決勝
戦は続いていました。
この時田中規夫さんは、すでに闘犬セン
ターの監督を辞めることを決意していた
ようです。
「選手も頑張っていたので、俺も頑張れ
た。」
「ある意味、総合の優勝で満足したが
よ。」
「お杉もしっかりしてきちょたし、
これから 実業団と戦っていくには、
俺よりお杉の方が ええと思うた。」
と振り返っていました。
オーナーが連絡が取れないとかなんとか
言っているのは、当然規夫さんの耳にも
入っていたでしょうから、こんなにきれ
いな決断でなかったことは想像できます
が、本人も実はあまり覚えていないとい
うのが実態です(笑)
杉元さんに聞くと、監督交代はオーナー
に言われたので仕方なく受けたと言いま
す。
しかし、この二人このゴタゴタの時期に
、同じ病院に入院していました。
病名も本当に入院しなければいけないよ
うな状態だったかも、定かではありませ
ん(笑)
病院で二人で何か話したことだけは間違
いありません。
けれど、二人に
「何を話したが?」
と聞いても、覚えていません(笑)
けれどこの二人、ある日の午前中に
私の職場に電話してきて、
「話があるので、すぐ来い!」
と言いました。
何事かと思って、年休を取って二人が
入院していた病院に行きました。
すると、規夫さんが
「俺は監督を辞める。」
「次はお杉がやるき、お前は辞めずに
やれ!」
と言われました。
これにはちょっと理由があります。
私が闘犬センターから誘われたころの
闘犬センター(特に弘瀬勝という人物)
は、非常に評判が悪く私の知らないとこ
ろで職員会議まで開かれて、闘犬センタ
ーと関わってはいけないと、たくさんの
人に言われていました。
一旦はお断りをしたのですが、是非一回
来てくれと言われ、田舎者の私は行って
お断りをしないといけないと思ってしま
ったのが間違いでした(笑)
※これは今後闘犬センターから誘われ、
いつの間にかやることにされてしまう
選手たち(被害者)も同じことですが、
断るつもりなら、行ってはいけない、
会ってはいけない、そうすると相手の
ペースにはまってしまって、出ること
の出来ない泥沼が待っていました。
そこに連れて行ってくれたのが、高校の
恩師でもあるH先生という体育の先生で
した。
その先生も試合を見て、その後開かれた
祝勝会にも一緒に参加して、田中規夫さ
んと話しをしていました。
偶然にも同い年でもあったようで、何か
意気投合してしまったみたいでした。
帰りの車の中で、先生にこう言われまし
た。
「規夫が監督やったら、大丈夫やき、
やれ!」
「そのかわり、規夫が辞める時は、
お前も 辞めろ!」
でした。
純粋無垢な私は、その言葉を何の迷いも
なく受け入れました(笑)
それで、闘犬センターでソフトボールを
することになるわけですが、このことは
規夫さんには言っていたようです。
(本人は定かに覚えていません。)
監督交代が二人の間で決定したので、
規夫さんは仕事中の私をわざわざ呼び出
してまで、このことを伝えたのだろうと
思っていましたが、
規夫さんも杉本さんも覚えていませんで
した(笑)
今となっては真相はわかりませんので、
当時呼び出してまで言っておかなければ
いけない、重要な選手だったということ
にしておきましょう!
言い出したら聞かない選手の代表でした
ので、直接言われただけでしょうけどね
(笑)
優勝後の監督交代劇にはこんな裏話が
ありました。
で結局、世界選手権に闘犬センターから、
杉元、大館、清水、深見、山崎、佐竹、
青山、家竹
の8名と、中京大学に進学していた高石
が選手登録ではない立場(マネージャー
?)で参加。
さらに、本大会には田中規夫さんが技術
視察員として参加しましたので、闘犬セ
ンターとしてはほぼ満点の交渉結果とな
ったみたいです。
やっぱりオーナーの押しの強さには、
誰もかなわないと言ったところでしょう
か。
まずまず思い通りになったことで、すん
なり行かないのがこの弘瀬 勝という
人物です。
出発前に出来上がってきたユニフォーム
を見て一悶着あって、事前合宿中にも
一悶着、合宿地から大会開催地への移動
中にも一悶着と、まあいろいろやってく
れました。
このことは、昭和59年の振り返りの中
で詳しくご紹介したいと思っていますの
で、今日はここまでにしたいと思います。
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何事もすんなり行かないのが、闘犬セン
ターです。
それも弘瀬 勝という人間が関係すると
さらに面倒臭いことになります。
あの人独特の価値観や損得勘定が働きま
すので、一般人では理解出来ないんです
ね。
この頃は若くて頭も冴えていましたし、
勢いもありました。
もうあんな人に出会うこともないでしょ
うが、なかなかめったにいないタイプの
人間でした。
ただいつの間にか私なんかは、嫌だった
闘犬センター、弘瀬 勝の考え方ややり
方が体に染みついていったみたいです。
時々ゾッとすることがあります(笑)
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写真は世界選手権出発前の壮行会で
取った集合写真です。
みんな若い!
