
あったはずの闘犬センター時代の写真
がどうしても見つかりません(汗)
仕方ないのでこの写真です。
これは1998年大坂国体に今はもう
無くなった
「成年2部」
に出場して、4試合投げ抜いて優勝し
た時の写真になります。
この頃もまだまだ元気でした。
さて異例の3回目になってしまいまし
た(笑)
弘瀬さんに問い合わせしていた
闘犬センター移籍の時のエピソードの
最終回答が届いていました。
読んでいて驚くのは、この方のソフト
ボール人生にこれほど「弘瀬 勝」
(闘犬センターオーナー)がかかわっ
ていたとは。
弘瀬さんもかたくなに闘犬センターか
らの誘いを拒絶し、理不尽な扱いを
受けることをエネルギーに変えて、
「闘犬には負けない!」
と戦っておられた。
だから弘瀬さんは闘犬センターにとっ
ては、
「目の上のたんこぶ。」
だったんです。
弘瀬さんが「鴨田体育会」から
「高知教員」に移籍された経緯に、
どうもオーナーの力が働いていたこと
なんかは、同情するしかありません。
理不尽な話しですよね。
闘犬センターでプレーしていても、
理不尽な話しはたくさんありましたか
ら、最大の敵である弘瀬さんにこのく
らいの理不尽な働きがあってもおかし
くはないですが。
闘犬センターは平成3年に弘瀬さんが
移籍してきた年から
「国体強化のためのチーム」
になりました。
と言うか、勝手にそうしてしまいまし
た。
この理由の一つは、国体予選(県予選)
に負けないようにしたかったんです。
ですから、この年から国体の県予選は
実施されないことになりました。
その代わり、闘犬センターは「クラブ
大会」には出場しないということにし
ました。
これで県予選で負けることはありませ
んので、四国予選に集中することが
出来るようになりました。
ただこの頃の力からすると、県予選を
やってもほぼ間違いなく勝てるだけの
実力差があったとは思いますけどね。
そこでオーナーは動きます。
弘瀬さんに改めて入部を誘います。
それも今までとは違った誘い方でした。
「国体強化のために協力してくれ。」
今まで拒絶されてきた
「闘犬でソフトしてくれ。」
じゃなかったんですね。
実質は闘犬センターです。
それは誰の目から見ても明らかでしたが、
敵は断りにくい提案の仕方を覚えていま
した。
かなり厳しいやりとりがあったみたいで
すが、結局は弘瀬さんが折れるしかあり
ませんでした。
ね、言ったでしょう。
断るなら、行ってはいけないんです。
ついに弘瀬さんを手に入れたオーナーは
弘瀬さんを大切にします。
昨日も書きましたが
「弘瀬勝は、弘瀬拓生が好きやった。」
このことは、田中雄二さんにも言われた
そうです。
まあ、あの方にかかわったことで、たく
さんのことを経験することになりますし、
やっていたあの頃は思い出しても腹が立
ってきますけど、その腹立たしさも年月
が少しずつ減らしてくれています。
オーナーが亡くなった時に、弘瀬さんは
香典を包んだと言われていましたが、
日本ソフトボール協会や高知県ソフトボ
ール協会などの公職を退いていた後でし
たので、お通夜も告別式も静かに行われ
ました。
お通夜の晩に枕もとで、杉本さんと私の
二人でいっぱい最後の文句を言ってやり
ました(笑)
「またこの二人がワシに文句を言いゆう」
って言いゆうでねと言いながら。
そして、
「あんたのお蔭で、大変でした!」
けれど、あなたのお蔭で普通では経験で
きないことをたくさん経験させてもらっ
たことも否定できない事実です。
それについては「感謝」の言葉しかあり
ません。
このことについては、弘瀬さんも同意見
のようです。
弘瀬さんの闘犬センターでの活動は3年
間でした。
それも突然闘犬センターに呼ばれて
「お前がおったら、若い者が育たん。」
「辞めてくれ!」
だったそうです。
これも初耳でした。
オーナーに振り回されたソフトボール
人生でしたね。
なにかこれまで以上に弘瀬さんに親近感
が湧いてきました(笑)
所属期間は短かったですが、闘犬センタ
ーの成績に大きな影響力のあった
「弘瀬拓生選手」でした。
遅い時間の更新になってしまいました。
今日はここまでにしたいと思います。
お休みなさい。