
地元群馬県で開催された
「あかぎ国体」
で力投する清水投手です。
残念ながら愛知県に敗れて3位で終わっ
た大会でしたが、
闘犬センターの国体デビューになりまし
た。
昨日ブログを書いて、夜思い出したこと
がありましたので、急遽追加をすること
にしました(笑)
3/27のメールマガジン(15)でご紹介し
たボロボロ泣いたという試合を思い出し
ました。
1982年6月27日の全日本一般男子県予選の
ことになります。
この大会は決勝戦まで行くと4試合あると
いくことで、闘犬センターは作戦を練りま
した。
決勝戦はたぶん「鴨田体育会」になるはず
でした。
相手は弘瀬投手が4試合投げるしかない。
ということで、清水投手を温存して決勝戦
だけに投げらせることにして、準決勝まで
の3試合を私が投げるという作戦でした。
1回戦5-1、2回戦1-0、準決勝13-2と勝ち上
がった闘犬センターに対して、鴨田体育会
は準決勝で延長9回抽選勝ちという際どい
勝ち上がり方をしてきます。
疲労度から行くと断然闘犬センター有利な
闘いなのですが、世の中そうは簡単には
行きませんよね。
清水さんにプレッシャーもあったんで
しょう。
逆に鴨田体育会に勢いもあったんですね。
清水投手は1回2失点、2回1失点して途中
降板となって、この日4試合目の私が登板
することになります。
この回の鴨田体育会の勢いを止めること
はできず、1失点で0-4といきなりリード
されることになりました。
その後は抑えて無失点でいきましたが、
闘犬センターは弘瀬投手から5回に1点を
取るしかできず、1-4で負けてしまいま
した。
これはショックでした。
この作戦を考えた首脳陣も後悔があった
んだと思います。
この帰りのドライブインでジュースを
飲みながら、ボロボロ泣いたのがこの
試合でした。
この頃までは技術的なことは別にして、
精神的には私がエースだったように思い
ます。
愛媛で行われた国体四国予選でもこんな
ことがありました。
この頃は四国に出場枠が2ある年があっ
て、1試合清水投手で行って負けて、
第二代表決定戦が丸善石油松山の愛媛県
になった時のことでした。
「どうせ負けるなら、
ヒロシで行こう!。」
これが監督以下選手の意見でした。
この頃も先発投手にオーナーの意見は
出されていましたが、この時はこの意見が
通りました。
とっても嬉しい、有難いお言葉だったんで
すが、
「え~、負けることが前提?」
という気持ちが私にはありました(笑)
しっかり勝って、意地は示しましたけど
ね!
どうせ負けるなら、あんなに練習している
ヒロシで行こうと思っていただけたことで
した。感謝です。
まだまだ、清水さんが本気じゃなかったと
いうことだったんでしょうか。
それともそんなに練習するタイプじゃ
なかったんでしょうかね(笑)
話しを鴨田体育会に負けた試合にもどし
ましょう。
ドライブインから桂浜の闘犬センターに
帰った後、店の前のベンチにオーナーと
私が座っていました。
負けて悔しくてたまらない私にオーナー
が
「今日の試合はどうのこうの・・・」
「あの時にこうしていたら・・・」
「あれはこうやったら・・・」
と話しかけてくるのですが、こちらとして
は何もしゃべりたくないんですね。
そして思わず
「黙っちょってくれ!」
「そんな話は聞きとうない!」
と怒鳴っていました。
この弘瀬勝と人物が誰かに怒鳴られると
いうところを見たことがありません。
全盛期は日本ソフトボール協会の会長で
したし、高知県知事や高知市長のところ
にも、 ズカズカ乗り込んで行くような人
でしたので、誰かを怒鳴っているところ
は何十回となく見てきましたが、30年
ほどの付き合いの中で、怒鳴られている
ところは見たことがありません。
私もそんなに強く言ったという感じでは
なかったですが、あまりにもしつこかっ
たので、頭にはきていました(笑)
これに驚いたオーナーは翌日監督に電話
していました。
「あいつはわしの手には負えんき、
規夫さん頼むぜ!」
だったそうです(笑)
次の練習日に監督に
「お前、社長に何を言うたがな?」
と聞かれて、状況が分かりました。
それ以降私がオーナーを怒鳴ったり、
怒ったりしたことはありません。
もう2,3回怒鳴っておけばよかったか
もですね(笑)
けど、私が文句を言うとオーナーの話し
が長くなって帰るのが遅くなるので、
「やめろ!」
ってみんなに止められていたので(笑)
今日はここまでにしますね。