
同級生の紹介が続きます。
闘犬センターの一塁手と言うより、日本
を代表する一塁手と言った方がいいかも
しれません。
「深見隆吉選手」
です。
闘犬センターの後半は、現在も高知PW
の監督兼選手で頑張っている
「岡本友章君」
ですが、前半は間違いなく「深見選手」
でした。
こうやって紹介していくと、闘犬センタ
ーには、日本を代表する選手がいっぱい
いて、そう考えると強くて当たり前だっ
たんだなあと、改めて思いますね。
ただそのような選手がいるのが当たり前
だったので、そんなにすごいことだとは
感じなかったということでしょうか。
さて、深見選手は熊本県の天草の出身で
す。
トヨタ自動車でソフトボールをやってい
た訳ですが、以前監督を紹介するシリー
ズの中の杉本監督を紹介した時に少し登
場してもらっています。
寮の部屋長が杉本さんで、田中誠一さん
と深見君が部屋子という関係でした。
残念ながら私はトヨタ自動車時代の深見
君を知りません。
杉本さんが闘犬センターから逃避行に出
られた時の行き先の一つが、深見君の
故郷「天草」だったということから、
深見君の闘犬センターでのソフトボール
が始まることになりました。
深見君は昭和56年トヨタ自動車を退社
されて天草に戻り、昭和57年は何もさ
れてなかったということでした。
そこに元部屋長でもあり、先輩の杉本さ
んが突然やってきます。
その時は杉本さんもソフトボールから逃
げていた時なので、特に何の話もなく、
しばらく居て沖縄に行くと言って出てい
かれたそうです。
その後逃避行から帰ってきた杉本さんか
ら、
「一緒にやらんか。」
との連絡が入ります。
本人は辞めて1年にもなるし、
「もう無理ですよ。」
と一旦は断ったそうです。
「まあ、そう言わんと1回見に来いや。」
との誘いに、先輩からのお誘いですし、
そうむげに断ることも出来なくなり、
ちょうど高知にも行ってみたかったし
ということで、高知行きを決めたそう
です。
これが間違いですよね(笑)
このブログを読んでいただいている方は、
もうお分かりだと思いますが、断るつもり
なら来てはいけないんです。
来たらオーナーの強引なペースに引き込ま
れてしまって、いつの間にかユニフォーム
が出来、グラブ、スパイク、遠征用バッグ
と道具が揃えられて、がんじがらめにされ
ておしまいです(笑)
深見君もこのやり方にひっかかりました。
まして、この時一緒にちょと練習したんで
すけど、その少しの時間で闘犬センターの
うるさい連中を黙らせてしまうほどの、能
力を見せつけました。
家竹、佐竹という超プライドの高い組が、
「深見さん、一緒にやりましょう!」
とお願いする始末です(笑)
私は事前に杉本さんから、
「すごいセンスの持ち主で、能力は間違い
ない。」
と聞かされていましたし、同い年で、
「お前と性格的にも合うわや!」
と言われていましたので、その確認をする
だけでした。
会ってみたらその通り。
あっという間に仲良しになりました。
私はソフトボールに関しては彼にかなうも
のは持ち合わせていませんでしたが、馬が
合うとはこのことでしょうか。
どこに行くにも、なにをするのも一緒とい
うことが多かったと思います。
日本国内はもちろん、海外遠征の時も常に
一緒にいたという感じでした。
プレーの話しをしましょう。
彼のバッティングは長打もあるし、穴の少
ないバッターでしたので、ピッチャーとし
たら責めずらいイヤなタイプだったと思い
ます。
彼の一発で助けられた試合もたくさんあり
ました。
守備も判断力が良いので、そつなくこなし
ていましたね。
足は速いんでしょうけど、イメージとして
は上手い走塁をする選手という感じだった
んです。
彼は1984年の世界選手権の時に、
「三塁打3本」という世界タイ記録を作っ
ています。
この時は無茶苦茶速かったです(笑)
外野の間にボールが飛んだと思ったら、
あっという間に三塁まで走っていました。
もしかすると、国内の試合では手を抜いて
走っていたのかと疑いたくなるほど速かっ
たですね。
まあ、その時はすごく足の調子が良かった
といくことにしておきましょうかね、
深見君!
彼は昭和58年から昭和63年までの6年
間闘犬センターに所属したわけですけど、
もっと長く闘犬センターにいたんじゃない
かと感じさせるくらい存在感のある選手で
した。
高知県民ではありませんでしたが、彼も
間違いなく
「闘犬センターの戦士」の一人でした。
熊本国体の時は
「熊本県の成年男子の監督」
をされていましたので、熊本県に帰っても
その人間性と能力をしっかり発揮されてい
ました。
最近は何年かに1回くらいは顔をあわせる
機会がありますが、会うとなぜかホッとさ
せてくれる大事な友達です。
これからもよろしく!
今日はここまでにしますね。