キャッチャー(その6) | ソフトボールを愛する人にお届けするブログ

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森澤選手のアジア遠征の時の写真になり
ます。

彼の経歴からご紹介しましょう。

1966年7月7日生まれ、七夕でした(笑)
右投両打ち、高知商業高校卒業
闘犬センター→大阪グローバル→岡住
(監督)→環太平洋大学女子ソフトボー
ル部コーチ→デンソー女子ソフトボール
部監督
路面電車運転士、看護師免許を持つ

なかなかいろいろな経験をされて、今の
場所までたどりついていますね。

入部してきた年にジュニアの世界選手権
がありましたので、そこではキャッチャ
ーをしていましたが、チームには大館さ
んがいらっしゃいましたので、外野を守
っていたりしました。

福島の一般男子は雨で順延になって、
仕事の都合で帰らなければいけない者が
いて、決勝戦(旭化成延岡)は10名の
選手しかベンチにいませんでした。

大館さんも帰ると言っていたのですが、

「あんたは帰ったらいかん!」

とみんなで止めて(笑)、森澤君はレフ
トを守っていました。

2アウト三塁の時に、彼のレフトフライを
旭化成のレフトが落球して入った1点が
決勝点になって、優勝しました。

運も実力のうち、ですね!森澤君(笑)

ちなみに三塁ランナーは私でしたので、
よーく覚えています。

大館さん引退後は森澤君が正捕手として
闘犬センターの扇の要として、活躍され
たことは言う間でもありません。

同級生のバッテリーですから、ブツブツ
言いながらやってましたが、長く一緒に
やっているという信頼関係でしょうか、
とても安定したバッテリーでした。

西村君も若くて暴れ馬みたいな時代です
ので、構えたところにきっちり来るとい
う感じではありませんので、大変だった
とは思いますが、その卓越したミットさ
ばきで、どっちに曲がるか分からない
ボールを簡単にさばいていました。

彼の印象的な言葉があります。

どこの国体だったかは定かではありませ
んが、昔の国体は地元びいきのジャッジ
はよくあったことでした。

天皇杯争いのこともありましたので、
たいていの場合高知県は初戦から優勝候
補の県との戦いが続きます。

その試合は地元相手ではなかったという
記憶なんですが、主審のジャッジがおか
しいんです。

なかなかストライクを取ってくれません。

きわどいボールは全部ボールです(笑)

それでもなかなか西村投手を打ち崩すこ
とはできません。

すると驚くべきことが起こりました。

ど真ん中のボールをバッターが見逃した
時に主審が

「ボール」

と判定したのです。

そこで森澤捕手の発した言葉が、

「なんぼ言うたち!」

標準語では

「いくら何でも!」

でしょうか(笑)

こうなったらバッターは何もせずに立って
いたら全部フォアボールになって、押し出
し押し出しで勝つことが出来るのですが、
バッターはそのようには出来ていません。

ストライクゾーンにボールが来ると、バッ
トを振るように訓練されていますから、
バットを振ってしまいますので、一応試合
は成立します。

まあ、これで勝っても後味は良くないです
ですよね。

ここまで極端なことはまれでしたが、国体
はいろいろなことがありました。

森澤君も大館さんと同様に、穏やかな性格
でしたので、大きな声を出して怒るという
ようなことはありませんでしたね。

キャッチャーというポジションには、
うってつけの性格ではなかったかと思いま
す。

だからこそ、今日本リーグの監督をされて
いるんだと思います。

あなたも、すごーい!

あ、思い出しました!

入部当初の一時期、近い距離を加減して
投げることが出来なくなっていて、キャッ
チャーからピッチャーに返球するボールが
安定しないので、オーナーから西村投手に
近くにボールを取りに来いと指示が出てい
たことがあります(笑)

遠くに強いボールを投げるのは全く問題が
ないのですが、この時期心に何か迷いがあ
ったのかもしれませんね。

それもいつの間にか解消されていました。

今日はここまでにしたいと思います。

次回は大舘さん、森澤君とは全くタイプの
違うキャッチャーをご紹介します。