
西村投手の全日本での写真です。
最初の世界選手権の時のものじゃない
かと思います。
西村選手の成績をご紹介しましょう。
日本男子リーグ 7連覇を含む優勝15回
全日本一般男子 2連覇を含む優勝3回
全日本総合 優勝2回
全日本クラブ 4連覇を含む優勝5回
国体 4連覇、3連覇を含む優勝9回
完全試合9回達成
世界選手権5大会連続出場
通算成績322戦237勝38敗1分け
国際大会42戦23勝7敗
トータル364戦260勝45敗1分け
すごい記録ですね!
私の印象として、38敗もしているという
のが、
「そんなに負けたっけ?」
って感じです(笑)
監督としての成績はというと、
平成10年から平成14年までの
在任5年で、
優勝5回、準優勝3回、三位2回
となっています。
歴代監督の中では、勝率はあまり芳しく
ありません。
この西村監督の時代になると、入部して
来る選手は、入部して来た時から
「日本一」
なわけです。
負けることを知らない、言い方を変える
と逆境になった時の戦い方を知らない
選手ばかりになっていました。
闘犬ペースで試合が進んでいっている時
はいいのですが、相手ペースになった時
や、相手にリードされた時の反撃力に
欠ける、良い意味での開き直り方を知ら
ない選手ばかりになっていました。
現代っ子の集まりと言ってしまえばそれ
で終わりですが、切り替えが早い、
負けた悔しさが長続きしないとしか
思えないほど、同じような負け方を繰り
返しています。
以前ご紹介しましたが、闘犬センターは
決勝戦での勝率がすごく高いチームでし
た。
昭和53年から平成9年までの間で、
トーナメントの決勝戦で負けたのは、
平成3年のクラブの決勝戦で負けた
1回だけです。
日本リーグも2位は昭和62年の
1回だけでした。
この強さは、この試合にどうしても勝た
ないといけないという気持ちの強さと、
負けることのくやしさを、負けることを
繰り返して知っている強みだったと思い
ます。
誰だって負けると悔しいんですが、その
あとどうするかですよね。
昨日ご紹介しましたように、この頃の
選手たちはすごい選手が集まっていまし
た。
昨日の梅下、岡本、江口の他に、西田
井上、上野、山崎泰稔、笹岡と強力な
打力を持った人間が揃っていましたし、
これに西村監督兼選手と大木投手も
いたわけですから、強くないわけがあり
ませんよね。
それが、負け試合ペースになると、声も
出ない、何とかしようという感じもなく
すんなり負ける。
格好良く勝とうと思っているとしか思え
ない、というのが私たちの印象でした。
私たち古い世代は、勝てないこと、
負けることが格好悪いと思う世代でした
ので、このギャップには苦しみました。
西村監督は、その時代を知っているので、
はがゆく思ってはいたようですが、元来
大きな声を出したりして、選手を鼓舞し
たりするタイプではなかったので、心の
中で葛藤していたんだろうと思います。
彼は選手時代からその実力で相手を
黙らせることのできる、本物の実力者で
したので、その必要もありませんでした。
一回もなかったのかなと思っていたら、
あったそうです。
まだ家竹監督時代、山形での日本リーグ
でのことだったそうです。
この時は選手と観客がもめてしまって、
最後は警察が出動するという事態にまで
になってしまいます。
頭に血が昇りやすい選手が火をつけたの
かと思っていたら、最初に火をつけたの
は西村選手だったそうです。
火をつけたと思ったら、頭に血が昇りや
すい瞬間湯沸かし器みたいな選手が、
「あっという間に追い抜いていきまし
た。」
と、笑って教えてくれました。
私はその時、チームを離れていましたの
で、現場を見ていませんが、ちょっと
予想外の展開だったようです。
闘犬センターのわがままが許されるのは
ユニフォームを着て、グランドに居る時
だけ。それもグランド内に限られるとい
うことを、教えていなかった私たちの責
任ですね(反省)
またまた余談が長くなりましたが、
西村監督としても、なかなか我慢を強い
られた5年間の監督生活だったのでは
ないでしょうか。
今は環太平洋大学の男子ソフトボール部
の監督をされていますが、選手の気持ち
を盛り上げるためにオーバーアクション
で選手とハイタッチしている姿を見たり
すると、監督業って大変だなあと、つく
づく思います。
今日はここまでにしますね。
明日は監督最終年の日本リーグを
振り返ってみたいと思っています。