
メールマガジンのご紹介の3回目、
メルマガとしては第2号になります。
それではどうぞ、ご覧ください。
第2号のメニューはコチラです。
■チーム誕生まで(その2)
■編集後記
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■チーム誕生まで(その2)
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初代監督田中規夫氏への取材が終わりまし
た。
薄くなった記憶をたどって、話を聞いて
きました。
結成時の闘犬センターは昭和53年3月に
高校を卒業する者と、朝倉体育会で活動
していた組とが中心のチームでした。
初代監督田中規夫氏は朝倉体育会の主将
をしていて土佐闘犬センター社長弘瀬勝氏
との交渉を任されていたそうです。
朝倉体育会は県の大会でも常にベスト4の
実力のあるチームで、全国大会や国体にも
出場するようなチームだったのですが、
部員の数も少なくなり今後の活動について
どうしようかと考えていた時期に、ある人
を介してチームを作りたいと言っいる
弘瀬勝氏を紹介されたそうです。
活動を続けたいという朝倉体育会の
メンバーの気持ちと、強いチームを作りた
いという弘瀬勝氏の欲求が一致して、
一緒にやりましょうという方向で話は
進んでいくことになります。
弘瀬勝氏の殺し文句は
「わしは金は出すけど、口は出さん!」
だったそうです。
(この言葉は結成当時私も何度も聞きまし
たので、当初は間違いなくそう思っていた
はずです。)
あくまでもオーナーに徹するという
素晴らしい姿勢だったというか、
ソフトボール素人の弘瀬勝氏に口の出せる
世界ではなかったのです。
ただし、これは長くチームの試合に同行し、
試合を見るようになるとそうはいかなく
なっていきました。
やがて
「金は出すけど、口もだす!」
になり
「金も出すけど、わしの言う通りやれ!」
と、どんどん変わっていきました(笑)
弘瀬勝氏はチームが強くなる以上の速さで
、日本ソフトボール協会の中で出世して
いきますので、途中からはソフトボールの
ことで知らないことはないくらいの勢いに
なってきていました。
このことが、後々いろいろなトラブルの
原因になっていくのですが、それは
おいおいご紹介していきますね。
けれど行動力ってすごいですね。これが
日本一に続く道の入り口になるんですから。
第2号はここまでにしますね。
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■編集後記
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最後までお読みいただきありがとうござい
ました。
このソフトボールに関しては全くの素人の
社長が作るチームが、翌昭和53年4月に
正式に高知県ソフトボール協会に
「闘犬センター」として登録して、
2年後にはクラブ選手権に優勝し、その後
日本リーグにも参加して25年間日本一に
なります。(余談にはなりますが、
この社長はその後日本ソフトボール協会の
会長にまで上り詰めます。このお話も時々
ご紹介しますね。)
引き続き現在古い記憶をたどるために
順次取材をしています。
どんな話が飛び出してきますか、
どうぞお楽しみに!
(山崎 浩誌)
まだ昭和52年の話が続いています。
さて、本日第19号を発行しました。
昭和58年総合選手権で群馬教員に勝って、
「実力日本一」の座を手に入れた試合を
詳しく振り返っていますので、是非読んで
みて下さい。
よろしくお願いします。