
この写真は1984年(昭和59年)、
熊本市で開催された第30回全日本一般
男子ソフトボール大会の時のものです。
後列の右端に写っているのが、まだ
高校生だった四代目監督の西村信紀君
です(若い)
これを書いていて一つジンクスを見つけ
ました。
高校生の時に、闘犬センターの試合に
ついて行った人は、
「監督になる!」
です。
実は三代目の家竹君も、たしか第2回の
全日本クラブソフトボール大会について
行っています。
まあ、この二人の実力であれば、監督に
なっても全くおかしくないわけですが、
二人ともが監督を経験していますので、
ジンクスということにしておいて下さい
(笑)
正確に言うともう一人高校生時代に、
闘犬センターについて行ったやつがいる
のですが、その選手は何故か試合にも
出場していますので、前の二人とはちょ
っと情況が違っています。
というのは、1988年カナダで開催された
世界選手権に家竹選手が出場します。
大会前の練習試合でデッドボールをくら
って手を骨折、世界選手権も出場出来ず、
さらに帰国後の闘犬センターの試合にも
出場出来ないという事態になりました。
そこで、日本協会の会長で闘犬センター
のオーナーでもあった弘瀬 勝氏がとん
でもないことを提案します。
「家竹の骨折は世界選手権に出場した
ために起こったこと。」
「だから、協会は出場出来ない家竹選手
の補てんを考えなければいけない。」
よく考えたら意味不明ですよね。
こんなことはいつ、どこで発生しても
おかしくないことであり、怪我で出場
できない選手がいれば、チーム内で誰か
が変わって出場すればいいことです。
それが、オーナーの考えたこととは違っ
ていました。
来年闘犬センターに入部することが内定
していた、高校生を変わりに出場させる
ことを、日本協会に認めさせてしまいま
した。
その高校生を出場させた大会でも、闘犬
センターは優勝していますが、
たぶんその高校生が居なくても、闘犬セ
ンターは控え選手を使って優勝していた
と思います。
それだけの選手層と、実力的優位は
持っていました。
これが、後に問題とされ、その責任を
追及されたオーナーは会長を辞職する
ことになり、闘犬センターは1年間の
出場停止処分を受けることになります。
やってはいけない奥の手でした。
この時の高校生は、ついていったのでは
なく試合に出場したので、家竹君と西村
君のよにうに監督になれなかったのかと
聞かれると、それは違うように思います。
その彼は二人のようなスーパースターで
はなかったこと。
そして、以前杉本監督が石川国体で激怒
した事件(監督(その13)でご紹介して
います。)を起こしたN島君という選手
ですから、杉本さんを怒らせた時点で、
その資格を喪失したということでしょう
か(笑)
この処分を受けた我々選手は、
「元々問題のあるこの処置に対して、
会長が怖いからと言って、異議を唱え
ることもなく一旦協会で認めておきな
がら、後になって問題視し、会長を
その座から引きずり降ろそうそうと
する勢力との、権力争いの道具にされ
た。」
と思っていました。
幸い日本ソフトボール協会主催ではない
ということで、国体出場の道は残されて
いました(今考えれば、これは日本協会
の温情だったと思うことができますが・
・・)ので、
国体で優勝して、あいつらの鼻を明かし
てやろうといきり立って、北海道に乗り
込んでいったことを覚えています。
会場でこの件に加担した日本協会の役員
を見つけると、試合相手そっちのけで
ヤジっていましたね。
本当に困った闘犬センターでした(反省)
またまた余計な思い出話しになっていま
した。
たまにはジンクス通りいかないことも
あったということを、お伝えしました。
今日はここまでにしますね。
明日は西村監督の高校生時代を振り返っ
てから、入部までをご紹介したいと思い
ます。
お楽しみに!