
結成当初の闘犬センターの試合中の
一コマです。
さて、メールマガジンの第2回目に
なります。
チームが誕生するまでのエピソード
をご紹介しています。
それでは、どうぞご覧下さい。
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第1号のメニューはコチラです。
■チーム誕生まで
■編集後記
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■チーム誕生まで
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サンプル号でご紹介しましたように
昭和52年の夏にはチームは誕生していま
せん。
土佐闘犬センターの社長弘瀬 勝氏
(故人)はソフトボールのことなど興味
はなかったのです。アルバイトのソフト
ボールの上手な高校生を使って、地区の
ソフトボール大会荒らしをしようかくらい
の軽いノリだったはずです。
それが負けただけなら良かったのですが、
バカにされたのです。
この人を怒らせたのがまずかった!
このあと社長は友人、知人、その他
あらゆる手段を使ってソフトボール選手を
集めるようになります。
ただしこの時点では、あくまでも自分を
バカにした地区のソフトボールチームを
見返すためのチームを作りたかった、
ただそのためだけの選手探しでした。
この社長の友人の中の一人に、高校の
同級生で高知県ソフトボール協会で審判を
やっていた笹岡さん(後に審判長になられ
ます。)という方がいて、この方から県内
のソフトボールの情報を得ることになりま
す。
その中に、力のある選手や来春に卒業する
高校生などの話があったりすると、商売人
の社長は臆することなく直接出向いて勧誘
するようになります。
その中の一人が私でした。
山の中の小さな高校に金色のリンカーンで
乗り付けられました。
危ない人が来たと思って逃げようとしたら
後ろから
「山崎君じゃない?」
と声を掛けられたときの恐怖が今も残って
います(笑)
この社長の行動力がその後の方向性を
決めたと言っても過言ではないでしょう!
行動力ってすごいですね。
これが日本一へのきっかけになるんです
から。
第1号はここまでにしますね。
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■編集後記
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最後までお読みいただきありがとうござい
ました。
このソフトボールに関しては全くの素人の
社長が作るチームが、翌昭和53年4月
正式に高知県ソフトボール協会に
「闘犬センター」
として登録し、2年後にはクラブ選手権に
優勝し、その後日本リーグ等にも参加して
日本一になります。(余談にはなりますが、
この社長はその後日本ソフトボール協会の
会長にまで上り詰めます。このお話も時々
ご紹介しますね。)
現在古い記憶をたどるために順次取材を
しています。
初代監督田中規夫氏、初代キャプテン松田
純夫氏、高知新聞運動部長桧垣典男氏など
懐かしい顔との再会も楽しいです。
どんな話が飛び出してきますか、どうぞ
お楽しみに!
(山崎 浩誌)
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これが昨年8月に発行しました、
メールマガジンの第1号になります。
現在昭和58年を振り返っているところ
ですので、続きを早く読んでみたい方は、
「まぐまぐ」で
「ソフトボール日本一への道」
と検索して読んでみてくださいね。
今日最新号を発行したところ、2mと
書かなければいけないところを、2mm
と間違って書いてしまっていたようで、
朝早くから西村信紀君にメールで指摘
されました(汗)
年のせいにして、ごまかしました(笑)
こちらのメールマガジンはブログと違って、
週1回の更新で進んでいますので、
なかなか前に進んではいませんが、記録を
中心に闘犬センターの歩みを詳しくご紹介
しています。
田舎の環境に恵まれないクラブチームでも、
やり方によっては
「日本一」
になれるということを証明した一つの記録
だと思っています。
ソフトボールを頑張っている方の、何か
参考になればいいなあと、古い記憶を
思い出しながら書いています。
よろしくお願いします。