監督(その29) | ソフトボールを愛する人にお届けするブログ

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この写真には三代目の家竹監督と
四代目の西村監督と私が写っています。

1990年(平成2年)の福岡国体の
時のものです。

私もまだ現役、家竹選手、西村主将と
珍しい3ショットが残っていました。

西村監督は、正式には1998年
(平成10年)から2002年(平成
14年)までの5年間、闘犬センター
の監督兼選手として大変な苦労をされ
ました(笑)

この時期には若い選手ばかりになって
いましたので、彼しかいなかったという
こともあったんでしょうけど、監督と
ピッチャーを兼務するということは、
想像以上に大変なことだったと思います。

それはオーナーも分かっていたようで、
またとんでもないことを思いつかれます。

それは西村監督のオブザーバーとして、
杉本さんと私をチームに戻すということ
でした。

杉本さんは6年間、私は4年間闘犬セン
ターを離れて幸せな生活を送っていたの
に、オーナーの変わった一手によって、
チーム復帰せざるを得なくなりました。

それは、

「西村を助けちゃってくれや!」

この一言でした。

オーナーは寂しい人でしたし、他人を
信用できない人でもありました。

その為に自分の周りに人を集める場合、
自分の近くにいるとこんなメリットが
あるということをぶら下げて、目当ての
人間を勧誘するという手をよく使いまし
た。

ただ、この手は杉本さんと私には通用
しないことは、長い付き合いの中で分か
っていたのでしょう(笑)

まして二人ともオーナーともめて闘犬
センターを辞めて行った人間です。

「以前のことは水に流して」とか

「もう一回、わしと一緒に」とか

というような言い方をしたら、その瞬間
に拒絶されると思ったのでしょう。

敵も考えたものです。

絶対断れない言い方をしてきました。

「西村一人じゃ大変ながよや。」

「去年もリーグで審判の問題でもめた。」

「西村を助けちゃってくれや。」

こうこられたら、断る理由がありません。

別に闘犬センターが嫌いな訳ではないし、
一緒にやってきた選手たちが困っている
なら・・・

こう考えてしまいますよね(笑)

私のところには、私の仕事中に突然やっ
て来て、お客さんもいるのに勝手に
ベラベラ喋りだして、3時間くらい居て、
断らないのを確認したら、また勝手に
帰って行きました。

相変わらずのマイペースでした(笑)

慌てて杉本さんに確認したら、ほぼ
同様の手口でした。

で、結局二人がチームに戻り、西村監督
のフォローをすることになりました。

この二人の復帰を一番嫌勝がったのは、
日本リーグの監督さんたちだったかも
しれません。

リーグ開催時には監督の打ち合わせが
あって、その後に懇親会みたいなものが
ありました。

二人の復帰後は、西村監督はほぼ毎試合
先発完投を義務とされていましたので、
試合以外の雑務は極力二人がやるという
ことで、宿舎でゆっくりさせていました。

その会に杉本さんと私が参加するもので
すから、他のチームの監督さんはやりに
くかったと思います。

別に脅したりするわけじゃないですよ(笑)

ただ、練習会場の調整やなんかの時に、
ちょっとだけ主導権を取らせていただい
たりしただけです。

「ここ空いているので、うちここで練習
 させてもらってかまん?」


とお願いするだけです(笑)

まあ、断れる監督はいませんでしたけど
ね。

最初は空いているスペースで練習してい
るんですけど、バッティングが始まると、
その飛距離が他のチームとはまるで違っ
ていましたので、本来その場所で練習す
るはずだったチームのスペースがどんど
ん小さくなっていって、最後には隅の方
でバンド練習なんかしていたってことも
よくありました。

本当に勝手ばかりをして、すみません
でした。(反省してます。)


久し振りに復帰した闘犬センターは、
選手も若くなり、以前とは違った雰囲気
にもなっていましたし、
ジェネレーションギャップみたいなもの
もあって、ちょと難しさも感じていまし
た。

闘犬センターの残り5年間をこの体制で
たることになった事情をご紹介しました。

この時点で、あと5年で闘犬センターが
無くなるなんてことは考えてはいなかっ
たんですけど、そのことはまた振り返り
の中でご紹介できると思います。

今日はここまでにしますね。

次は、西村監督というか、西村選手の
入部あたりから詳しくご紹介して行って
みたいと考えています。

本人は何を書かれるかドキドキしている
らしいです(笑)

お楽しみに!