
この写真が1997年(平成9年)
大阪国体優勝の時の写真になります。
昨日ご紹介したように、田中三夫監督
の指揮のもと、国体三連覇をはたした
時の、嬉しい胴上げの様子です。
愛知国体後の1995年(平成7年)と
1996年(平成8年)は、家竹監督に
田中三夫さんがオブザーバーとして
ついて、戦っています。
成績は見事、国体も日本リーグも全部
優勝!
成績としては問題はありませんでした。
しかし、チーム内では少々問題を抱えて
いたようです。
監督で選手としても主役だった家竹監督
に対して、存在感を増してきていたのが
山崎正宏捕手でした。
闘犬センターに所属して、それなりの
立場を形成する選手は一癖も二癖も
あって当たり前。
そうでなければ、あのあくの強い世界で
生きていけませんでした(笑)
この時期、あくの強い選手といえば、
家竹監督と山崎正宏選手となるでしょう
か。
山崎正宏選手も若い頃は、やんちゃでし
たが、まだかわいらしさも残っていまし
た。
それが年齢も上がっていき、チームの
中心選手として活躍もして、ジャパンの
キャプテンを務めるようになると、その
勢いはなかなかのものでした。
それぞれお山の大将でありたいと思って
いる者が、チーム内に二人いるわけです
から、もめないわけがありませんよね。
試合中は問題ありませんが、それを離れ
るとたびたび衝突していたようです。
この大阪国体の時には、家竹監督も
山崎正宏選手もメンバーにいません。
山崎正宏選手は仕事で問題を抱えていて、
チームを離れていました。
家竹監督と言うと、監督5年目の1997年
(平成9年)の新年明けて、最初の集合が
かかった時に、彼は40度の熱を出して寝て
いたそうです。
するとオーナーが
「なんだ家竹は、監督のくせに新年最初の
集合に来ないなんて!」
と激怒したというのです。
連絡をしておけば何の問題もなかったこと
だったんでしょうけど、また問題が発生
してしまいました。
これに反発したのが家竹監督でした。
すでに、ソフトボールへの情熱が薄れて
いたところに、この言いがかりです。
「やめた、やめた!」
となりますよね。
ここで間に入ったのが、初代監督の
田中規夫さんと前年までオブザーバー
として、助けてくれていた田中三夫
さんだったそうです。
二人が何回も電話をしてくれて、
「お前が謝ったら、済むことやき!」
と言ってくれたそうですが、前述の
山崎正宏選手とのゴタゴタなんかもあ
って、頭を下げてまでソフトボールを
する気持にはならなかったと言ってい
ました。
ということで、このシーズンはどうなっ
たかというと、
家竹監督、西村監督代行で戦うことにな
ります。
オーナーは、まだ家竹監督が戻ってくる
と思っていたんだろうと思いますし、
戻ってきた時の席を残していたんだと思
います。
田中兄弟に仲裁をと指示したのも、きっ
とオーナー自身だったはずです。
自分で問題を大きくしておいて、最後は
ちょっとだけ優しいところを見せるオー
ナーらしい話ですが、それやったら最初
から怒らなかったらいいのにといつも
思っていました。
ワンパターンなんです。これに慣れると
対応は簡単になりました。
「はいはい、またいつものことですか。」
見え見えなので、最後の落としどころまで
分かっているのですが、オーナーの手順を
省略するわけにはいかないので、そこは
面倒臭くてもオーナーの気が済むように
お付き合いをしてあげないといけませんで
した(笑)
最後に、
「どうや、ワシの言うた通りやったろう。」
と言わせて終わらせてあげないといけな
かったのです。
子どもでしょう(笑)
ずっと我々の方が大人になってましたよ!
1997年(平成9年)は国体は優勝しました
が、日本リーグは8連覇を逃して、
9年振りの二位に甘んじてしまいます。
闘犬センター出場停止処分の1989年
(平成元年)を除いて、日本リーグは優勝
か二位しかありません。
トーナメントの一発勝負は、やってみない
とわからないところがありますので、
時々番狂わせが起こりますが、リーグ戦と
なると、戦う相手の力量も分かっています
し、ほぼ実力通りの成績が残るものです。
優勝13回、二位4回という日本リーグの
成績は、闘犬センターの強さを如実に表し
ていると思います。
西村監督代行としては、二位でのスタート
となりましたし、エースで4番で、監督で
と、またまた重圧の中での苦労が始まった
年と言えるでしょう。
翌1998年(平成10年)からは、
正式に四代目西村信紀監督として、苦難の
生活が始まります。
今日はここまでにしますね。
明日からは、日本の大エースの監督生活を
ご紹介していこうと思いますので、
お楽しみに!