
タイトルの「監督」とは関係のない
家竹選手の紹介が続いてしまいまし
た。
それほど彼はすごい選手だったと
いうことでしょうね。
初めて参加した1984年の世界選手権
でも、打撃四部門独占という快挙を
達成します。
まあ、本塁打については、足を
生かしたランニングホームランです
から、少し微妙ではありますが、
数字だけで言うと間違いなく、
四部門トップの成績を残します。
翌年には、世界のオールスターに
トヨタ自動車の田中誠一さんと、
二人が選出されて、試合に出場して
います。
さて、「監督」業に戻ります。
家竹監督の在任期間は、
登録としては、
1993年(平成5年)から1997年(平成
9年)までの5年間になります。
しかし、最後の1997年(平成9年)は
シーズン前に事件があって、チームを
離れていますので、実質は4年間の
監督生活となりました。
家竹監督在任中闘犬センターは、国体
と日本リーグにしか参加していません
から、優勝回数は少なくなっています。
しかし、彼は参加した大会(監督とし
て)全部優勝しています。
国体3回(香川、福島、広島)と
日本リーグを4回です。
なんか、数がおかしいですよね。
そうなんです、彼の在任中はちょこ
ちょこ事件が起こりました。
順番にご紹介していきましょう。
1993年(平成5年)監督に就任した時の
事は、先日ちょっとだけご紹介しまし
た。
家竹監督、山崎総監督という体制で、
実際の指揮は家竹監督が取っているわけ
ですが、私がオブザーバーでついて、
雑務を引き受けるという形でやっていま
した。
これは見事に機能して、この年国体、
日本リーグと無事に優勝して幕を閉じま
す。
問題発生は翌年のシーズン前、桂浜の
闘犬センターでの、オーナーのこんな
一言から始まります。
専門学校を卒業して高知に帰ってきた私
は、闘犬センターに呼び出されます。
そこで、
「今年は日本リーグは家竹が監督、国体
はお前が監督をやれ!」
また突然、訳の分からないことを言いだ
したものです。
前年杉本監督から家竹監督に替わって、
何の問題も無く成績も残している体制を
わざわざ変える必要などあるはずもあり
ません。
まして、
「船に船頭は二人いりませんよ。」
「こんなことやりよったら、船は進みま
せん。」
という、私の抗議を聞き入れることもな
く、オーナーのいう通り、大会によって
監督が替わるという変則体制がスタート
します。
オーナーにはオーナーなりの計算(県の
体育協会、県協会他との思惑)があった
んでしょうけど、これが現場に大きな
問題を生むことになってしまいました。
この年家竹監督は仕事の関係やなんかで、
なかなか練習に参加出来ないことが続い
ていました。
そうなると、高知に帰って来たもう一人
の監督が練習の指揮を執るということが、
必然的に多くなります。
そんなことが続いていたある日曜日の
練習に、家竹監督が遅れて参加してき
ました。
すでに練習が始まっていましたし、流れ
の中で次の指示を私が出していました。
すると気分が悪かったんでしょうね。
突然、
「誰が監督な!」
と、捨てゼリフを残して家竹監督が帰っ
てしまいました。
あれあれと思ってはいましたが、普段
ほとんど練習に来ないし、今日も遅れて
きて、まだアップしていたくらいだった
しな、程度の認識でした。
その後チーム内に激震が起こっていまし
た。
家竹監督が選手に連絡して
「お前、どっちの味方な?」
と聞いているという情報が聞こえてきた
のです。
私は動揺しました。
私はもともと監督をやるつもりなどなく
まして、家竹監督との権力争いなどをす
るなんてことを考えたこともありません。
オーナーに押し付けられたとはいえ、
国体の監督ということにはなっていまし
たので、それなりの責任感は持って練習
には参加していました。
ですから、あまり練習に来ない家竹監督
に対して少々の不満を持っていたのは
否定しません。
ただ、ここでこんなことでもめるような
ら私は居ない方がいいという結論になる
までに、時間はかかりませんでした。
さて、辞め方です。
何かの覚悟を持って桂浜を訪ねても、
勘の良いオーナーは会ってくれないとい
う場面を何回も見てきていますし、
会って話しても結局は相手の言い分を
聞き入れることになることは目に見えて
いました。
この時点で闘犬センター設立から15年、
設立から所属している人間は私一人に
なっていましたが、ここでその経験を
生かすことにしました(笑)
このチーム、オーナーと、もめないと辞め
られません!
そこで、ユニフォーム一式と今回の経緯
をしたためたお手紙(オーナーに手紙を
書いたのは、後にも先にもこの一回だけ
です。)をダンボールの箱に入れて送っ
て、あとは一切の関わりを断ちました。
これしか辞める方法はないと確信して
いました(笑)
このダンボールを受け取ったオーナーは
怒っていたそうです。
長く一緒にやった私から、このような形
での絶縁だったわけですから、
「俺は、山崎からこんな仕打ちをされる
覚えはない!」
と言って怒っていたと、誰かから聞いた
覚えがあります。
それから私は闘犬センターとの関わりを
一切していませんので、四代目西村監督
のフォローに付くことになる、1998年
(平成10年)までの闘犬センターのこと
を全く知りません。
というか、避けていたんだろうと思いま
す。本当に記憶の中にこの時期の闘犬セ
ンターの試合のこと、選手のことが全く
ありません。
新聞なんかでは、結果くらいは見ていた
はずですし、気になっていても不思議で
はありませんが、全くと言っていいほど
記憶にないので、無理にシャットアウト
していたんだろうと思います(笑)
ということもあって、長く家竹選手の
紹介をしていたというわけです。
で、この年はオーナーが何故か
「喧嘩、両成敗。」
「国体の監督は田中三夫で行く!」
ということになって、
日本リーグは家竹監督、国体は初代監督
田中規夫さんの弟で、創立メンバーでも
あった田中三夫さんということになりま
した。
田中三夫さんはとてもユニークな方で、
コミュニケーション能力の高い方でした
ので、この後若い家竹監督の足りない部
分を補って、オブザーバーという形で
チームに帯同するという形を1996年(平
成8年)まで続けることになります。
この時期に入った若い選手たちは、
田中三夫さんの飲み二ケーションンで、
たくさん助けられたことだと思います。
闘犬センターの監督はされていませんが、
田中三夫さんは二度国体では監督をされ
ていますので、影の歴代監督と言っても
いいと思います。
ただ、突然の監督就任だった1994年(平
成6年)の愛知国体は5位に終わります。
これはゴタゴタさせてしまった私の責任
でございます。
誠に申し訳ありませんでした(汗)
このことは、高知新聞運動部の恐ーい
部長さんにも
「今回の国体の成績は、お前の責任!」
と、キツーク言われたことを
忘れてはおりません。
田中三夫さんは3年後の大阪国体でも
監督をされて、見事優勝、翌年の西村
監督就任と同時にチームを離れられます。
少し長くなりましたので、そのあたりの
ことは、また明日ご紹介したと思います。