
1986年(昭和60年)から1991年(平成4年)
までの9年間、監督を続けてきた
二代目監督の杉本さんの我慢も限界を
迎えました。
「もうこれ以上、社長と一緒にやるのは
ムリ!」
と、社長の制止も振り切って監督を辞め
ることになります。
と言ってもきれいに辞められるわけもな
く、一方的な職場放棄といった形を取る
しかありませんでした。
杉本さんの在任期間中、二度の職場放棄
がありましたが、その都度監督代行をし
ていたのが私でしたので、周りは当然
私が次の監督と思っていた人も多かった
ようです。
しかし、私は平成3年から平成5年までの
3年間、高知を離れ神奈川で鍼灸の専門
学校に行っていましたので、この監督
交代の時期に高知におりませんでした。
国体監督の問題もありますので、県外
在住者である私が監督をするのは無理
だという結論でした。
そこで、三代目監督に写真に写っていま
す、世界の首位打者、家竹選手が就任と
なるわけです。
オーナーもさすがに若い家竹監督に一抹
の不安を感じたのか、私を総監督として
家竹監督のフォローに当たらせるという
システムを導入します。
これが後に大きな問題を引き起こすこと
になるんですけどね(汗)
家竹監督就任の平成5年から、闘犬センタ
ーの戦い方が少し変わります。
日本選手権が平成4年で終わり、闘犬セン
ターは基本、日本リーグと国体のみに
出場するということになりました。
選手の仕事の都合や、日程の問題、
さらには家庭への負担の問題も長くやっ
ていると、結構こたえてくるものです。
最初の1年目は日本リーグ優勝、
香川国体優勝と問題なく終了しました。
特に香川国体は、初の民泊ということも
あって、民泊でウチの選手達大丈夫かな
と心配しましたが、大野原町のみなさん
の暖かいお世話と応援のおかげで、無事
優勝させていただきました。
優勝後の集会所での食事と祝勝会では、
闘犬センターの歴史上、最も盛大な
ビールかけをやらせていただきましたし
、ビールで全身ずぶ濡れになった選手は
もう一度お世話になったご家庭に戻って
シャワーを使わせていただいて、別れを
惜しんだ後、高知に戻るという貴重な
体験をさせていただきました。
高知市と大野原町は車で1時間ほどの
距離しかないのですが、国体後は高速
道路を通過するくらいで、ご挨拶も
できておりません。
その節は大変お世話になりました。
みなさんに大変気を使っていただいた
おかげで、数多く参加させていただいた
国体の中でも、唯一の民泊の国体という
こともあって、印象の強い優勝になって
おります。
大変遅くなりましたが、心より感謝申し
あげます。
ありがとうございました。
ということで、今日はここまでにしたい
と思います。