監督(その15) | ソフトボールを愛する人にお届けするブログ

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この写真は1986年
第1回サイパンパシフィック大会に
日本代表チームの監督として参加
して、優勝した時のものです。

実力的には日本が抜けていました
ので、勝つのは当たり前でしたが、
選手起用に天からの声があるなど、
その辺りは大変だったと思います。

さて、昨日杉本さんに電話する前に
記録を整理してみました。

昭和59年から平成4年までの9年間、
闘犬センターの監督をされています。

そして、24回優勝されていました。

西村という絶対エースの存在はあり
ましたが、彼一人で勝てるほど、
ソフトボールは甘くありません。

西村君は西村君で、内にも外にも
敵がいて、それは大変だったと、
彼の歴史を振り返っている文章に
書かれていましたが、そのことは
西村君を振り返る時に詳しく
ご紹介しようと思います(笑)

昨日の電話で、

「なぜ、監督引き受けたが?」

と聞いたところ、

「社長に、お前やれ!」

って言われたんで、仕方なくやる
ことになったというようなことを
おっしゃられました。

「規夫さんと話し合って、決めたん
 じゃないが?」


「ん?規夫さんが辞めるってことに
 なって、そんならお杉、お前やれ。」


規夫さんと話したような気もするけど、
最後は社長に言われて、あの人に言われ
たら、やるしかなかったという感じじゃ
ない?

どうも、前にご紹介した前監督の記憶と
は少し、認識が違っているようですね。

杉本さんの中では、社長(オーナー)に
やらされたという印象が強いのだと思い
ます。

これを書いていて思い出しました。
総合選手権に優勝して、翌年の
世界選手権のメンバー選出や、スタッフ
の編成で、オーナーと日本ソフトボール
協会と、準優勝だった群馬教員とで、
なかなかの駆け引きが行われていました。

社長としては、優勝したのは
闘犬センターなので、主導権を取りたい
のですが、それこそポイット出の田舎の
クラブチームが1回優勝したくらいでは、
そうはいかないというのが、日本ソフト
ボール協会だったでしょうし、実績の
ある群馬教員でした。

監督人事でも結局は、群馬の岡先生に
なりますが、その辺りの話をしている
時に、規夫さんは入院していて連絡が
つかないとか、ゴタゴタしていました。

というか、オーナーが一人イライラして
いたというイメージが残っています。

そのとばっちりというか幕引きが、
田中規夫監督勇退、杉本新監督就任と
いう形になったんじゃないかなと、
振返ってみてそう思います。

優しいオーナーは、結局は規夫さんを
技術視察員という形で、世界選手権に
行けるようにしますけどね(笑)

杉本さん本人としては、若干25歳の
若造が出来るんだろうか?という感じ
だったようですが、当時のことを
思い出してみても、後任は杉本さんしか
いなかったという気はします。

社長に押し付けられたというイメージが
強い杉本さんは、監督在任中社長と
ぶつかって、職場放棄を2回ほどされ
ます(笑)

けれど居ないと結局は選手が困るという
ことで、帰ってこられるのですが、
その都度社長が仲直りをしようと言って
くるらしいんですね。

杉本さんは社長と仲直りをするために
帰って来たわけではないので、仲直り
の握手はしなかったそうです。

私は、他の選手が居なくなって探して
いた社長が、その選手を見つけて、
戻って来るという約束をして、
「指切り」をしたという話しを
知っています。

その話しを杉本さんにしたら、

「指切りなんか、絶対せん!」

と、拒絶でした(笑)

社長って、可愛いでしょう?

社長は杉本さんをすごく信頼していま
したし、何でも「お杉、お杉」だった
んですが、わがままなので、さすがの
杉本さんも我慢できなくなるんですね。

それでぶつかって、社長は杉本さんが
居ないと困るので、

「仲直りの握手しよう。」

になるわけなんですが、杉本さんは
溜まりに溜まった末の行動なので、

「仲直りはせん!」

となって、試合は自分が居ないと困る
だろうからということで、復帰される
ということだったんだろうと思います。

歴代監督は、この社長の扱いに
ストレスをためることになります。

杉本さんの逃避行、これが闘犬センター
にとって、すごく良い戦力の獲得に
繋がるというお話を、明日したいと
思います。

お楽しみに!

今日はここまでにしますね。