
この写真は1983年総合選手権に優勝
した後に、大阪球場で高知から応援
に来てくれた方たちと一緒に撮った
記念写真です。
決勝戦で群馬教員に延長戦の末勝利
して、念願の「実力日本一」の
タイトルを手にしました。
優勝しただけで、まだまだ本当の
意味の「日本一」ではありませんで
したが、このタイトルを手にしたこと
で、翌年の世界選手権に多くの選手が
選出されることになり、さらに翌年
からは「日本リーグ」にクラブチーム
が参加するという、ウルトラCの発想
もオーナーから発表されます。
これらの経験が闘犬センターを強く
していきましたので、これが
「日本一へのスタート」だったかも
しれませんね。
優勝して高知に帰ってしばらくしての
ことでした。
仕事場に田中規夫監督から電話が入り
ます。当時規夫さんと杉本さんは同じ
病院に入院していました。(病名は覚え
ていません(笑))
「ちょっと話があるので、今すぐ病院に
来い!」
でした。
仕事場に休暇届を出して病院に行くと、
二人が居て、
「監督を辞める。次の監督はお杉がやる
ので お前は辞めずに頑張れ!」
と突然言われました。
「はい。」
と答えておしまいだったのですが、
これには伏線がありました。
私が闘犬センターでソフトボールをする
かどうかでもめていた時、一人の恩師の
言葉で決まったという話は以前しました。
世間の評判の悪い闘犬センターでソフト
ボールをすることに、ほとんどの人が
反対する中、試合を見にきていたという
か、私を試合会場に連れてきていた恩師
が、
「規夫が監督やったら大丈夫、やれ!」
「ただし、規夫が監督を辞める時には
お前も辞めろ!」
と言いました。
私はそうすると決めて闘犬センターに
入りましたし、いつだったかそのことを
規夫さんには話していました。
規夫さんはそのことを覚えていて、自分が
辞めること、次は杉本さんがやることを
病院で話し合って決めた後、私を呼び
出して言ったみたいです。
その当時を思い出してみると、杉本さんの
人間性も十分理解していましたし、ソフト
ボールに熱中していた時ですので、
規夫さんが辞めても私が一緒に辞めると
いう選択肢はなかったような気がします。
私の話はさておき、規夫さんが監督を
辞めると決めた理由を、今日あらためて
聞いてみました。
「総合選手権も優勝させてもらったし、
満足感があったがよ。お杉もしっかり
してきちょたし、これからもっと勝た
ないかんかったり、日本リーグで実業団
と戦うには、ワシよりはお杉の方が適任
と思うて決めたがよ。」
「あの優勝は、それまで頑張ってきたこと
に対するご褒美やと思うた!」
「あれで満足やった!」
と言われました。
結成時から5年間の監督生活の中で、
社長とも色々あったよね?って聞くと
「俺は社長のことは嫌いになったことは
ないよ。好きやった。そもそも嫌い
やったら一緒にやってない。こっちも
言いたい ことを言わせてもらったので、
もめた ことも何回もあったけど、
それは辞めたこととはぜんぜん関係ない。」
と、はっきりと言われました。
なんか涙が出てきました。こんな素敵な人
と一緒にソフトボールが出来たことに感謝
です。
こんなことがあって、6年目からは
杉本博司監督の元、実業団には出来ない
クラブ型のソフトボールで、日本中を
暴れまわることになります。
次回からはその杉本博司監督を、ご紹介
していきますね。